裁判官はなぜ誤るのか
秋山賢三/岩波新書
刑事裁判を見る眼
渡部保夫/岩波現代文庫



 似た主題の本を続けて読んだのでまとめてレビュー。秋山氏と渡部氏は、どちらも裁判官として長くキャリアを摘み、退官後これらの著書を物された。そのためか著述の視点、実例を挙げた問題提起などにも裁判官ならではの説得力があり、共通している点も多い。
 「任意性のない自白を証拠とすることはできない」と法律に明記され、三審制度が確立されている今日。しかしそれでも誤判・冤罪事件は存在し、獄中から無罪を訴える声は後を絶たない。犯罪者が素直に罪を告白するわけはない、無罪の声に耳を傾ける必要はない―――そんな考え方もあるだろう。しかし現在の日本の法曹界には、「有罪」を作り上げる体質が根強くはびこっているという。正しく判断し正しく裁くことを求められる裁判官とて、出世や警察・検察との関係、上司や周囲の目から自由ではない。さらに偏見を咎められることを承知で言えば、検察は被告に有利な証拠を隠匿することが可能であり、裁判官の目の前に全ての情報が正しく開示されるという保障もない。
 「疑わしきは被告人の利益に」の大原則。これは「被告人に有利に」ということではなく、被告人の罪を客観的に立証するには証拠が足りないという、理詰めでの判断の結果もたらされる判決である。しかし意外とこの法則は守られていない。それどころか、「裁判官はなぜ誤るのか」で紹介されている袴田事件のように、被告と犯罪を結びつける明確な物証がない、または物証が本当に犯人の遺留物であるのか疑わしいのに死刑が宣告される例もある。
 また「刑事裁判を見る眼」で紹介されている弘前大教授夫人殺人事件などのように、無実の被告に懲役刑が宣告され、十数年間服役して出獄したあとに真犯人が見つかると言う無残なケースもある。事実が判明した時点で、真犯人には時効が成立しており無罪。冤罪で服役した人物は再審で当然無罪となったが、当然失われた年月は戻らない。検察と裁判所は恥をさらした。この事件では、警察が押収した被告の服に被害者のものと思しき血液が付着していたことによって有罪判決が下された。しかし犯人は別にいるのだから、当然血液が付着していたわけがない―――考えられる可能性は2つ。血液検査で98.5パーセント被害者のものだと判定された血液が、残る1.5パーセントのうちに含まれる他者のものであったということ。もうひとつは、考えたくないことだが、警察や検察が証拠を捏造したと言うことである。
 刑事事件の判決は結構きっぱりしている。否認事件では、本人が悔悛していないのだから(やっていないと主張しているのだから反省もしようがない)、情状酌量の余地は減る。だが「この犯罪なら量刑は死刑相当だが、この被告がやったかどうかいまいちはっきりしないから無期懲役にしておこう」「無期懲役が妥当だが、冤罪の可能性があるから10年にしておこう」と言う判決はない。やったなら有罪、やらなかったなら無罪。ではやったかやらないかはっきりしない場合は? 難しいがだからこそ審理は慎重の上に慎重を期さねばならない。しかし無罪判決を出すと「無罪判事」などと呼ばれ、出世や検察との関係に支障をきたすこともあるという。
 刑事事件で起訴された人の有罪判決の確率は99.9%だという。これは日本の警察や検察が有能だという証拠なのか、それとも刑事事件の裁判がきちんと機能していないという現れなのか。印象は後者に傾く。
 渡部氏は30年にわたり刑事裁判に携わった元裁判官。当然ながらさまざまな判例に通じ、この本で挙げられた実例はバラエティに富んでいる。刑事裁判の手順や現在の問題点について非常にわかりやすく解説している。
 秋山氏は徳島ラジオ商殺人事件の再審裁判で無罪の判決を出した元裁判官である。この本では前半2章を日本の裁判官の生活・仕事の現状に割く。さらに自らの判事としての豊富な経験、判事を引退して後の弁護士活動を通して、裁判官が陥りやすい誤謬、さらに裁判官を誤謬に陥れるシステムの問題点を指摘する。さらにその問題点を改善するための、一般市民による陪審・参審制の導入についても言及する。