交通死
二木雄策/岩波新書



 「交通死」―――交通事故による死のことを、著者は戦死になぞらえてこう呼んだ。
 著者の愛娘が、他者の過失による事故で突然19才の命を散らした。その哀しみ、また怒りは無論深かったが、事故から刑事裁判、賠償交渉、民事裁判へと進む間、著者がぶつかりつづけてきたのは「車社会」の壁である。それは「交通事故による死者数年間一万人」を、もはや異常だと感じない社会。慈しみ育ててきた愛娘が、ただの「一万分の一」としてしか扱われない社会である。
 まず行われた刑事裁判。ここでの加害者への判決は、懲役2年、執行猶予3年というものだった。ここでまず著者に疑問が生じる。なぜこの判決となったのか、具体的に説明した文章は判決文には見出されなかった。過失により他者を死に至らしめた者に対し、これは軽すぎる量刑なのではないか? そこで著者は、業務上過失致死(95%が交通事故による)と他の犯罪の量刑と、その執行猶予付加の状況を調べた。結果、業務上過失致死・致傷、道交法違反は、他の犯罪に比べて執行猶予が付加される割合が飛びぬけて高いことが判明した。
 刑事事件の結審以降、賠償交渉に移るが、ここでも著者と加害者・保険会社との間に意識の疎通はならなかった。保険会社には、被害者の年齢や性別などによって規定化された料金表がある。だが著者は、娘をそうしたシステムの枠にはめて一律に判断するのではなく、娘を個人として、19年生きてきた一人の人間としての価値を見て欲しいと願う。それは保険会社との交渉が決裂し、弁護士、ひいては地裁、高裁へと変わっていく交渉相手とのやり取りの中で、著者が一貫してとり続けている姿勢である。
 著者は交通事故における保険・賠償金の算定システムに関してこの本の半分のページを割いている。計算式や統計表を駆使し、微にいり細にいりその「金額の妥当性」について検証している。だが結局、この長い調査の後で著者が確信したのは、生命に値段をつける事の空しさ、ただその一事に尽きると言える。刑事裁判で、賠償交渉で、民事裁判で、著者はその判決や金額ではなく、その結果が導き出されるまでの経緯に、娘の姿が少しも見えてこないという一事に関して嘆いている。
 この本の統計によると、現在は25歳以上50歳以下の男性の95.4%、女性の78.3%が免許を持っているとのこと。それはつまり、それだけ多くの人たちが、車を運転する許可を得ているということ―――ひいては、他人を簡単に死に至らしめることのできる機械を動かせるということである。
 勿論、どれだけ気をつけていても、決して自分のせいではなくとも事故は起きてしまうことがある。だがこの一万人という数字に馴れてはいけない。誰もが加害者になる可能性を持っている以上、誰もが被害者になり得るのだということを忘れてはいけない。そしてこの交通事故死者数を、明確に異常だと認識できる社会になるように―――それはこの長い調査と裁判を終えて、何より著者が訴えたかったことではないだろうか。