いのち 〜8人の医師との対話
柳田邦男/講談社文庫



 命があるものは必ず死を迎える。死は必ず個人的なものであり、本人とそれを取り巻く家族にとって何よりの重大事であることはまず疑いない。できうることならば慣れ親しんだ家で、それが無理ならばせめて家族や愛した人生に囲まれて、またはライフワークがあるならばそれを完遂した上で、納得のいく死を迎えたいということが理想だろう。
 しかし現代の医療現場では、それはなかなか実現しがたい状況にある。「患者にしてみれば、精神的な死も生物学的な死も渾然一体となって病んでいる自分がいる」と著者は言う。だが医師はまず「病気」を見る。生物学的に病んでいる部分だけを気にかける。言葉は悪いが、患者を人間ではなく、病気をかかえた生物として見ると言い換えることができるかもしれない。患者の側でも、精神的な訴えを憚る気風がある。肉体的な苦痛でさえ「我慢しろ」と言われる。医者の側でも、薬を出して手術することに対して診療報酬が出ても、カウンセリングではほとんど金銭的に報われない。対話から有効な医療方針が得られることが、往々にしてあるにも関わらず、である。
 この本では、終末期医療やリハビリ医療に深く携わる8人の医師たちとの対話を通じ、「死を前にした人の生き方」と「その人に対する医療のあり方」とを提言する。ガンや筋ジストロフィーといった難病と正面から向き合う人たちの最期を多く看取ってきた医師たち。その言葉からはは、淡々と冷静に、しかし熱意をもって「患者の人生にとっての最善」を模索している姿勢がうかがえる。
 私はこの本を、今現在自分も家族も健康で、間近に死の匂いのない人たちにこそ読んでほしいと思う。家族の間で共に読むのも良いかもしれない。多くの人は健康を損なうまで、自分の死について考えることなどないと思う。しかし避け得ない状況に陥ったとき、常日頃から家族で語り合い、意思を確認することができていれば、一刻を争う事態にも冷静に対処できると思う。
 これは終末期医療に限らない話だ。「インフォームド・コンセント」が叫ばれて久しいが、医師に治療方針を提示されれば、大多数の患者は、疑問や希望があっても置き去りにしたままで従うのではないだろうか。あちらは専門家でありこちらは素人なのだから、または世話になるのだからと、遠慮がはたらいてしまうかもしれない。しかし実際に病を得て苦しんでいるのは自分である。本来の医療は患者が主、医師が従であるはずだ。納得のいく治療を受けるためにも、事前に自身の治療に対する希望や意識(ぼんやりとであっても)をもっていることが望ましいと思う。この本はそうした対話に対する助けになるだろう。