桜が薫るものだと初めて知った。
山桜。どこか整然と並ぶ木立は、誰の手によってそこに植えられたのか、もはや知ることはできない。貧弱なか細い枝、やっと迦遊羅の倍の高さに届こうかという若い木の群れは、おそらく遥かな昔からこの妖邪界でひっそりと生きてきたのだろう。阿羅醐が失せ、妖邪が去り、数年を経て大気が浄化された。それでようやく息をつくことができるようになったものか。この年初めて、若い葉に守られるように、小さく花をつけた。
多忙な時間を割いてとった休息。あざやかな緋の単を纏い、膝を折って根方に座り、迦遊羅もまたゆっくりと呼吸する。
風に混じるほのかな甘さ。淡い色彩の空を横切って、鳥が彼女の頬に影を落とす。妖邪の群れが空を埋め尽くしていたのは、まだつい最近のことなのに、それが夢であったかのように静寂は暖かい。
見上げれば思い出されるのはただひとりの面影。
かつてその力に目覚めていなかったころ、その色の鎧の主であった彼と、にび色のこの空を縦横に駆け巡って戦った。たとえ浄化が進んでも、空だけは人間界と同じような青に染まることはないという。光源がどこにあるかさえ定かではない、靄のかかったような風景。けれどそれもまた良いと迦遊羅は思う。鎧の名は天空。それに相応しく切り裂くように宙を飛んだ、彼の姿を鮮明に思い出せるから。
今は妖邪界と呼ぶことがためらわれる、美しく姿を変えつつあるこの世界。魔将たちも共に復興に力を尽くし、こちらで生きざるを得なくなった人たちと共に、小さいながら社会を作り上げている。多忙な日々にあって、戦いの合間に、あるいは政務の手を休めるひとときに、彼らと戦った日々を思い出す。阿羅醐に操られていた頃の記憶は今でも矜持を傷付けるが、少年たちと剣戟を交わしたことは、懐かしくさえ思われた。
北方の妖邪の勢力を平らげる激戦の翌日、静けさをいとおしむ今もまた、その時。
―――だから。
一瞬、思い出が、空間に映されたのかと思ったのだ。
ここはそうしたことの起こる可能性を秘めた世界だから―――
「何者!」
単の裾から愛用の星麗剣を抜き放ち、誰何の声を鋭く発する。常の彼女からすれば遥かに遅い時宜。これが敵ならば、首の一つも欠かれていてもおかしくない。
気配はそれほど静かに現れ、静寂を乱さずに近づいてきた。
迦遊羅はおよそ戦いに向くとは思われぬ装束である。けれど闘気を凛と身に纏うその姿は、確かにこの世界に君臨する巫女姫として相応しく。
―――現れた人物が、瞬時見とれてしまうほどに。
「……!?」
彼女の知った気配だった。霧が晴れぬうちからそうと察し、迦遊羅は驚愕に目を見開いた。記憶を辿るまでもない。蒼い―――人間界の空の色の―――
鎧戦士の、気配。
「…剣を、下げてくれないか」
少しずつ霧の向こうから近づいてくる足音。声は、ああ、少し低くなっただろうか。苦笑をにじませた表情も大人びた。自分の目と耳、五感の全てがが信じられない。
彼は数歩の距離を隔て、彼女の目をまっすぐに見た。現代の人間の服。いつも手にしていた弓も今はない。目を見開いて何も言わぬ彼女に、軽く両手を上げて降参の姿勢を取る。半ば呆然としていた彼女は、自分が剣を構えたままだったことにやっと気がついた。
「…どうして―――」
下げた手から剣が落ち、迦遊羅はようやくそれだけを問うことができた。天空の戦士は、長い足をもてあますような歩き方で距離を詰めた。視線は彼女を見下ろす。彼はこんなに背が高かっただろうか?
「これをもらった」
彼の差し出した薄様紙の一葉に迦遊羅は目を落とした。淡い紅をぼかして染めた紙に、これもまた淡い墨痕。ただ一言、「花開く」と。
「…螺呪羅の手蹟です」
「らしいな。さっき聞いた」
「さっき?」
「魔将たちが出迎えてくれた。迦遊羅にだけ内緒だったんだが、実は今、全員で来てる。…みんな、連絡をもらえるのを待ってたから」
どこか照れたように笑い、当麻は彼女の顔にひたりと視線を据えた。どこか居心地の悪いような思いで、迦遊羅は正面から視線を受け止める。重たげにすら見える長い睫毛。少女らしく染まる頬と、対照的に冴えた光を宿す目は数年の時間が彼女の上にも流れたことを、天空の戦士の目に知らしめる。
彼を一人でここに来させた仲間たちの、大きなお世話になりかねない気遣いを、当麻は心底から感謝した。
言葉の空白の数瞬。静寂がまた支配しようとした空間を、薫る風がゆっくりとかき乱す。
「…綺麗に咲いたな」
当麻の言葉を受けて、迦遊羅の表情が、どこか誇らしげに輝いた。
「はい」
しっかりとうなずいた彼女の隣に立ちながら、その視線について桜の花を追う。もろともに同じ感情を、世界を隔てて抱いていたことを、お互いにどことなく感じ取りながら。
視線を戻すたび、当麻の目が見返す。浮き立つ心とともに、桜にも負けぬ笑みが浮かぶ。仲間たちのもとに行こうとは、どちらもしばし口にしなかった。
ほんの少し意地の悪い表情で、当麻を花園に向かわせた、かつての幻魔将の表情。
―――さて。この手紙の花は、どっちのことだったんだろうな。
迦遊羅に視線を奪われたまま、当麻が内心でひとりごちたことは、誰も知らない。
―――2002/4/26 脱稿