月光の行方




 サルガッソの障壁を消し去ることに成功したユグドラシルの一行は、いよいよソラリスとの決戦に臨むべく、かの地への中継点となるシェバトへと向かった。ギアの搭乗者たちも、彼らを迎えるシェバトの面々も、激化する戦いを思って緊張したが、ここで数日の猶予が与えられた。休息を強硬に要求した人物がいたからだ。バルトである。
「とにかく、こないだニサンに着いてっからこっち、俺達はまるっきり休みなしだぜ。ここで一日や二日止まって休んでいっても、ばちは当たらないと思う!」
 まるっきり、というのは嘘だ。ニサンとアヴェの解放に費やした前後の数日、碧玉要塞とアンドヴァリの調査中、またサルガッソ突入の準備でタムズに寄港したときもそれなりの休息は取っている。しかし、それを訂正する言葉は何処からも出なかった。
 シェバト王宮の女王の間、戦いのときだけ人口密度の上がる部屋は、バルトが口を閉ざすと奇妙に静まり返った。各人の胸に去来した感情はそれぞれ異なっているが、後戻りできないという自覚が、確かに幾ばくかの猶予を欲している。
「そうですね、ユグドラの整備や、買い出しなどもあるでしょうし…少し休みをとりましょうか。明後日のこの時間に、またここに集まることにしましょう」
 シタンが断を下し、ゼファー女王もうなずいた。ただ一人、口を挟もうとして機を逸した少女がいたが、皆がそれに気づく前に言葉を飲み込んだ。
 ため息をつくことで自分自身を納得させた、そのわずかな呼吸に気づいたのは、聖服に身を包んだ少年ただ一人だった。


 妹が寝付いたのを確認して、ビリーはユグドラシルを離れ、下層ドックから上がる浮き石に乗った。すでに夜中だったが、今日に限ってプリムはなかなかベッドに行こうとしなかった。いつもと違う緊迫した雰囲気を、幼い少女は敏感に察知していたのだろう。ビリー自身も、どこか気分が高揚していて、休む気分になれずにいた。
 ビリーは銃の装備一式を装着してシェバト上層へと上がっていった。チュチュの一族の経営する店は二十四時間営業である。弾の補給をしてから銃の手入れ、と頭の中で段取りを考えながら、ビリーはシェバトの上層外郭を通り、王都アウラ・エーベイルに足を踏み入れた。
 空を仰ぐ街路はしんと静かだ。この都はいつも人影がまばらだが、夜出歩く者は更に少ないらしい。手すりも何も無い天空の道を歩くのに、辻ごとに細く光る街燈と星明かりだけでは心もとないということもあるだろうか。ビリーも爪先に神経を集中して、星と月の光を頼りにそっと歩いた。なぜか呼吸までひそめてしまい、靴音や銃の金属が触れ合う音が耳につく。
 半壊のまま放置されている民家を見下ろす場所まで来て、ビリーはふと足を止めた。道の向こうから、彼のものと同じようにひそめられた足音が聞こえる。こんな時間に、とそちらを見やると、見知った銀色の髪が一瞬街燈に照らされた。
 マリアだとわかったときには、もう彼女は空き家へと至る浮き石に飛び乗っている。ビリーがいることには気づかなかったらしい。静かに下降し、軽い音を立てて浮き石がとまると、鈍く重い音を響かせて扉が開く。マリアはすいと身を翻して中へと消えていった。そのか細い姿を見て、ビリーは彼女が昼間女王の間で見せた表情を思い出した。
 マリアはあの後ずっとユグドラシルに戻ってこなかった。
 今更のように思い当たって、ビリーは首をかしげた。いったい今まで、何処でどうしていたのだろう? ここはマリアの第二の故郷でもあるから、あまり気に留めていなかったが、ゼプツェンはユグドラシルに係留したままだ。戦いを前に様子を見にも来なかったことがどこか附に落ちない。
 ビリーは弾の補充を後回しにすると即決し、浮き石が定位置に戻るのを待って飛び移った。それが導いていく先を、あまり好いてはいなかったが。
 ゼファー女王の命で時間を留め置かれた廃虚。そこはマリアの隠れ家、というより沈思の場所である。初めてこの天空の都市に来た日、この家でゆり椅子を動かしていたビリーたちに、マリアは無表情に家の歴史を語った。その声音は静かで、事実以上のことを何一つ告げず、ただ空虚に響いたことを覚えている。
 極力音を立てないようにドアを開くと、月明かりに照らされた床に、うっすらと埃が積もっているのがわかった。マリアがユグドラシルに移って以来、訪れる者もいないのだろう。その上に小さい足跡がついているのを見て、ビリーは足を中へ踏み入れた。なるべく音を立てないように気をつけたつもりだったが、この静まり返った空気の中では呼吸の音さえ響いてしまう。
「誰!?」
 厳しい誰何の声が降ってくる。ビリーは投降者のように、階上に向けて両手を挙げてみせた。
「僕だよ」
「ビリーさん…」
 覗いた顔は暗くて見えないが、声からありありと彼を邪魔に思っていることが聞き取れた。追ってきたは良いが、その後のことを何も考えていなかったことに気づいて、ビリーは少しうろたえた。だがここで引き返すのもおかしい気がして、そのままきざはしに足をかける。
「…何か御用ですか」
「別に、何も。姿が見えたから追いかけて来ただけ。…女の子が一人で出歩く時間じゃないしね」
 最後の言葉は取ってつけたものだったが、マリアはそうは取らなかったらしい。階段を上ってくるビリーに向かって、呆れたように肩を竦めて見せた。
「このシェバトで、どんな危ないことがあるって言うんですか?」
「念のためだよ」
 最後の段に足をかけた彼の視界いっぱいに夜の月が広がる。破壊された壁、建材の断面も痛々しい子供部屋は、いつもマリアが座る揺り椅子の周囲だけ掃き清められているが、あとは雑然として古い空気の中に沈んでいる。既に消え去ったはずの血の染みすら、夜の明かりの中では鮮明によみがえってくるようだ。
 ビリーは一瞬腹立たしさを感じた。おそらくその大部分はゼファー女王に対して。時間に捕まった部屋を保存して、いったい何の役に立つというのだろう? マリアまで古い戦いの記憶にとらわれてしまっているようで、気に入らない。
「…静かだね」
「ええ、たった今までは」
 感慨を押さえつつ言わずもがなのことを口にしたビリーに、マリアは苛立ちを押さえ切れない声音で応えた。マリアの表情は暗くて見えないが、一生懸命に睨み付けているのだろうことは想像がつく。
「ビリーさん、お忙しいんじゃないんですか? こんなところにいて良いんですか」
 時間を止めた静謐に浸された空間にとって、ビリーは闖入者でしかありえない。歓迎されるはずもないと承知してはいたが、これだけあからさまな態度を取られると、さすがに肩を竦めたいような気分にさせられる。
「君は余裕があるね」
 ため息を交えつつ、ビリーはささやかに反撃を試みた。
「今日はユグドラに戻って来なかっただろう? ゼプツェンの整備もあるのに」
 言ってしまってから、嫌味だったかと心配になる。だがマリアは言葉を額面通りに受け止めたらしく、顔をビリーから背けて視線を月へとさまよわせた。白い頬が今日初めて月光の元で明らかになる。
「余裕なんて…ありません」
「え?」
「皆さんはどうだか知らないけど、わたしは真剣だもの。余裕なんてあるはずないでしょう」
「皆さんは…って」
「だってそうでしょう!?」
 少女は突然、癇癪を起こしたように怒鳴った。
「もうソラリスまではすぐなのに、今更こんなところで足踏みなんて。今日戻ったってきっと、整備なんかできなかったわ。ユグドラの人たち、みんな遊びに行ってしまってたもの」
「…マリア」
 呆気に取られたビリーの視線の先で、形の整った唇が噛み締められる。破壊された壁から遥かをにらみ据える視線。そこに含まれる苛立ちそのままに、マリアは肩を震わせた。後方援護の役割を与えられたときも、そう言えばこんな顔をしていた、とビリーは今更ながら思い当たる。
「私が行けるなら…っ」
 声を途切れさせ、何かを断ち切るように目を閉じる。いつもは冷静と無表情の仮面をつけているマリアの覚悟と焦り。初めて目の当たりにしたそれへ、ビリーはかける言葉を模索し、自らの想いを振り返った。
 ソラリスで過ごした幼い日のことは、今もわずかに覚えている。父と母、父の後輩の同居人に囲まれ、かわいがられるばかりの子供だった頃。すでに離れて久しい現在、その地に特に郷愁などは感じない。だが教会の実体とウェルスの正体を知るまで、敵と見なしてもいなかった。
 けれど、今は違う。みずからの血の内で叫ぶ何かが、ソラリスへと自分をかりたてている。
 銃を人に向けることには、まだ躊躇がある。エトーンとしてウェルスを裁いていた頃とは違い、自分の正義への絶対的な信頼が無い。鈍い光を放つ、他を傷つけるためだけに存在する金属の塊―――今やそれは手に馴染み、指と手首を通じて感じる重みは体の一部として存在していると錯覚するほどだ。それだけ長い間、この銃と共にあった―――ひいては他者を葬ってきたのかと思うたび、ビリーの心臓はきしんだ音をたてる。これからも葬るのかと思うにつけ、また。
 しかし自分はソラリスへの道を選ぶ。どこか狂った世界の原因を探るために。自分が殺してきたウェルスたちの苦しみを終わらせるために。手探りのままこの世界を進んでいく、その覚悟を決めるためにも。
 ―――自分はこれ以外の方法を知らない。
 それはおそらく、この少女も同じことで。
 自分のうちで荒れ狂う感情をもてあまし、月の光で冷まそうとここへ来たのだろう。
「…みんな、それは同じだよ」
 いささか脈絡にかける言葉を告げられ、マリアは目を瞬いた。まだ少女の素の表情がのぞいたままであることがなんとなく嬉しい。
「みんな、怖じ気づいてるわけでも、これからのことを軽く考えてるわけでもないよ。落ち着かないのは同じだ。…でも、準備は必要だから」
「準備?」
 鸚鵡返しに聞き返して、マリアは少し上気した頬でむくれた。
「だって、バルトさんが出発を延期したがったのは、マルーさんのためでしょう。準備のためなんかじゃないわ」
 確かに常であれば、バルトが休息を言い出すことはまれだ。まだ足の怪我が治りきっていないマルーが、シェバト王宮の医務室に移されていなければ、今回もおそらく彼の口から「休みたい」という言葉が出てくることはなかっただろう。彼は現在もマルーに付き添って艦を降りている。
 ビリーは他の面々にも思いを巡らせた。チュチュとエメラダに地上見物に駆り出されたフェイとエリィは、「とにかく目いっぱい楽しんでこよう」と、出かける前から必要以上に意気込んでいた。ユイとミドリのところへ向かったシタン、補給のために走り回っているシグルドとメイソンも、事情は違えどもう少し猶予がほしいところだっただろう。
「…でも、わかってるだろう? 本当は」
 苦笑しながら、ビリーはなだめるような言葉を口にのせた。
「休みは必要だよ。誰にでも。―――こんなときは、特にね。誰かと一緒にいたいと思うよ」
 らしくないことを言っているな、と我ながら思う。真っ直ぐに見詰められて目をそらしたのは、月と彩りを同じくする彼女の髪が、ひどく目に痛いからだと心で言い訳をして。
 君にも、と言外の思いを込めながらビリーが口を閉ざすと、彼の意に反して少女の視線が少し険しくなった。
「でも、私は。…一緒に過ごしたい人なんか、いないもの」
 ぽつりと漏れた声が弱音めいて聞こえ、ビリーはぎくりとして彼女を見た。伏せた目はもう彼を見てはいなかった。涙は浮かんでいなかったけれど、泣き出す寸前の顔をして。
 ―――奪われてしまったから。…奪わざるを得なかったから。
 自分の言葉を後悔して慌てるビリーの前で、けれどマリアはすぐにいつもの表情に戻った。この天空の都市の守護者たる仮面をつけた顔。一つ吐き出したため息は、おそらく自戒のためのもの。
「ごめ…」 「すみません。あなたには関係のないことでしたね」
 マリアはビリーが口にしかけた謝罪を遮った。激発したことを恥じてか、ことさらに感情を消す努力をした声だった。拒絶の言葉を受けながら、ビリーは心の中で自分の未熟をののしった。シグルドやシタンや、…悔しいがあの馬鹿親父なら、こんなときもっとうまく立ち回れるのだろうと思う。
 会話はそれきり途切れた。戻る気のないらしいマリアの前で、ビリーも足を動かすきっかけを失ってしまっている。冷たい空気が膠着し、ビリーはそれをわずかなため息でかきまぜた。
 関係はあると言いたかった。けれどその根拠を探せない。
 迷いと、焦りと。少女の顔に浮かんだ感情は、自分にも覚えがあって―――でもはじめから、慰めようとか、励まそうとか、そんなことを思っていたわけではなくて。
(誰かと一緒にいたいと思うよ)
 先ほど自分で口にのぼらせた言葉だ。さらに巡らせた思考が、思いがけないところへ落ち着きそうになって、ビリーは慌てて頭を振った。
 けれどその想いは消えない。
 一緒にいたい人。―――ずっと心にかかっていた少女。この家への道を辿るマリアの肩が、殊更にか細く見えてしまった時には、おそらくもう決まってしまっていたのだ。こんな時にとまた二度三度頭を振ったが、それも無駄な努力に終わる。
 怪訝そうにビリーを見上げる彼女の瞳が月光をはじいた。
「…?」
「あ。ごめん…」
 何に対しての謝罪かわからぬままの言葉に、マリアも首をかしげつつ「いいえ」と答える。それ以外に言い様がなかったのか、また会話がゆるやかに途切れた。ただし今度は視線を合わせたまま。
 心臓が調子外れに鳴った。けれど目をそらすことを惜しむ。月の光を受けてなおまっすぐな、この寂しい瞳に捕らえられる。
「…ぼくが、ここに」
 無意識に近い言葉がこぼれる。
「ここにいることは、許してもらえないかな」
 赤面しないで言い切れたことは賞賛に値する、と思った。虚を衝かれたような顔をした彼女が、やがてゆっくりと肯いてくれたことを、もう信じていない神にすら感謝して。
 このまま戦闘の朝が来なければ良いと思いながら、細い肩に聖服をかける。
 寒さではなく月光から彼女を守りたくて。
 慌てて返そうとする彼女の手を、肩を押さえて押しとどめながら、ビリーはかろうじて笑ってみせた。
 生きて戻ろうと思う。また彼女の隣に立とうと思う。
 泣かずに生きていくことはできないから。せめて、一人で泣かないですむように。
 この月が消えてしまえば良いと、ビリーは強く目を閉じた。



11000番って…去年…しかも春…ですわねえ…(遠い目)
すみませんすみませんすみません〜。
ビリー×マリア、というよりビリーからマリア一方通行。
完全にビリー視点ってほんとに書きづらい、と書き始めてから後悔。
だから何?って感じのお話です。わああ。
マリアのことを考えておたついている彼が書きたいな、と思ったのですが
長いばかりでまとまらず。おまけに読みづらいったら。
リクエストにお応えできているか不安…。



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