浄室に焚きこめられた香が、雨の気配に揺らいだ。
晴天も黄塵に霞む季節だが、今日ばかりは空もにび色に染まっている。周の賓客の一人である佳人は、数日振りに外界との隔てである御簾を上げた。
肺の奥まで一息に大気が満ちることのないよう、注意深く息をしながら、窓に軽くもたれて立つ。浅い発熱のために重く感じるまぶたを冷やすように視線を伏せながら、春の始まりを告げる雨を音だけで受け止めた。
心配性の弟子たちや崇拝者たちが見たら止めただろうが、この場にいるいま一人は、先ほどから安らかな睡眠をむさぼっている。枝から滴る水滴の音も子守唄がわりだろう。彼の持ち込んだ可憐な花の一輪が、雨と共に芳香を放つ。
冬から目覚めたばかりの若芽、軒の連なりも立ち込める雨の霧も、目新しく感じて飽きることがない。美貌に童女めいた微笑を浮かべ、しばしの秘密ごとを楽しむ。
だが少しずつ室内にしみこんでくる外気はまだ冷たい。座椅子をひとつ所有物と定めて陣取っていた男が、身じろぎとともに目を覚まし、寒そうに肩をさすった。領巾を袖に這わせてはいたが、湿気を含んだ空気は薄い布を通り抜ける。彼は外の風景を見咎めて眉を潜めた。
「…あー、またそうやって…」
「冷えたか。すまぬな」
彼―――太乙真人が覚醒して小言を言い始める前に、公主は窓を離れた。けれど御簾は上げたまま、よろい戸ももとの位置を保ったままだ。入れ替わりに窓に寄ろうとする彼を視線ひとつで止めて、用意してあった袷を差し出す。
「あのね、そういうことじゃなくてさ」
「天よりの恵みじゃ。すがしい」
言葉を無視するかわりに、公主は彼の肩に袷を着せ掛ける。ありがたく受けながらも、太乙は卓上に手を這わせて、無粋な金属の色をした小さな機械を取り上げた。彼がつい先日この浄室に取り付けた、空気清浄機のリモコンである。今日はこの調整の名目で、堂々と部屋に入り込んだのだ。別に名目などなくとも、公主の弟子達は太乙を止めたりはしないのだが。
どこか稚気をまとわせた表情のまま、太乙は空調の目盛を読んでしかめ面をして見せた。
「やっぱり弱くしてる。…うん、これで大丈夫」
「…あまり強すぎてはつまらぬ」
控えめな抗議の声を、お返しとばかりに太乙は無視した。見た目には何も変化はないが、膚に触れていた雨の気配がたちどころに掻き消える。
仙界大戦が終結を見、引き換えに崑崙は地上へと落ちた。帰る地をなくした仙人たちが下界に降りて数ヶ月たつ。失った知己たちへの追憶はもちろんそれぞれの胸にあったが、竜吉公主の場合、何よりも環境の激変がひとしお身に堪えた。
周囲が彼女に寄せる気遣いはひとかたならぬものがある。事情を聞いた周の王は、城の一部を彼女のために提供することを全面的に許可した。太乙はナタクの修理と同時進行で、環境保全のために部屋の改造を行った。入り口の扉をくぐれば殺菌装置つきの控え室があり、透明な被膜のついた短い廊下がそこから延びて、空調を自在に整えられるこの居間に続く。浄水装置を備えた台所は、赤雲と碧雲のテリトリーとなり、かつての崑崙並みの医薬品を完備。この建物の近辺では騒音は一切禁じられ、武吉が走るのもナタクが飛ぶのもご法度である。
公主も一応はおとなしくしていたため、薬入りの香で咽ることも最近ではなくなりつつある。
が、いかに自分の体のためとは言え、閉じこもりきりでは気がふさぐ。会える人物も限られる。太公望が老子を追って旅立ち、残る仙人たちが特訓に入ってしまった今、公主のもとを気軽に訪れることができる人物はほぼ太乙一人である。
佳人はいたずらな表情を浮かべ、床からわずかの距離を保って浮き上がりながら、長身の男の目を覗き込む。
「のう、太乙。携帯型の被膜も作ってくれぬか?」
「だめ」
きっぱりと太乙は返し、口元にだけ笑みを刻んだ。
「私は、あなたがここから動かずにいることだけでも奇跡だと思ってるんだけど。外に出てどんな無茶をするつもりなんだい?」
「心外じゃな。無茶をすると決めてかかることもなかろう」
「だってするでしょ」
あっさりと言って、太乙はおかえしとばかり公主の顔を覗き込む。
さやかな月光の元に咲くという伝説の花に喩えられる美貌は、静かに笑みを浮かべてそこにある。だがそれにごまかされるほど、あるいはごまかされるのを許してもらえるほど、浅い付き合いではなかった。
その目に確かな決意の色が浮かんでいるのを見て取って、太乙は諦めに似た感情を覚えた。おそらくは誰にも―――たとえば、彼女を誰よりいとおしく思う男であっても、覆すことのできぬ決意。
そうと知って、太乙がこの佳人に勝てた試しはない。だがため息の代わりに視線をそらし、回答を先送りするように、太乙は茶化した言葉を唇に乗せる。
「そうでなくても私は、あなたの無茶を助長するって言って、赤雲ちゃんや碧雲ちゃんに嫌われてるんだからさ。これ以上悪評が立ったりしたら、あなたに近寄らせてもらえなくなっちゃうよ」
「それはなかろうよ。私がこうして生きていられるのは、今はそなたのおかげじゃからな」
「…あんまりそーいうこと言わないの」
眉根を寄せて窘めると、太乙はつと手を伸ばして、公主の痩身を引き寄せた。
彼女の背中に流れ落ちる黒髪を指で軽く梳く。するままに身を任せながらも、公主はわずかに身じろぎをする。細い首筋に唇を寄せると、薄い皮膚を通じて、彼女の命脈をつなぐ鼓動が伝わってきた。
それは傍からは艶めいた光景に見えるかも知れない。しかし彼の行為は、ただその音、彼女が生きている証を受け止めるためだけのものだった。太乙は時折そんなふうに児戯めいたそぶりを見せる。それは決まって、彼女が自身の生に関わることを口に乗せたとき。
雨すら音を無くしたような数瞬の後、軽く息をついて太乙はわずかに身を離した。戯れのように耳元へ唇をずらし、そのまま彼女髪の香を楽しむ男を、どこか呆れたように公主は横目で見上げた。
「薬の匂いしかせぬであろうに…」
「いいや? 良い匂いがするよ」
言いながらも、太乙の耳元で警鐘が鳴る。
彼女の顔を見てはいけない。困ったように首をかしげる様を。かすかにねだるような微笑を。太乙の迷いを押え込んでしまう、鮮烈な水の色をたたえた瞳を。
太乙は公主の髪にもまたかるく唇を押し当てる。視線を合わせないようにしていることなど、しかしこの仙女にはお見通しのはず。
「…おぬしからはいつも、機械の匂いがしたものじゃが」
「…そう?」
「今は、私の匂いが移ってしまっているな」
公主は太乙の肩に頬を寄せた。自分が口にすることが、今のこの男にどれだけ影響を与えるか知っている。もはやここも、彼の逃げ場にはなり得ない。
世界が緊迫を増している。
戦へ戦へと向かう人間たち。いまだ終わりを迎えぬ封神計画。心に体に傷を負いながら、それでも立ち上がる仙道たち。
全てに最後を迎えさせるために太公望が発った。ただ、この空間のみが、切り取られたように静けさを保っている。
ただ静謐。つい先日まで、空の上で戦っていたのが嘘のような。
…嘘に、してしまいたいような。
初めて長い時を過ごすこの地上、迎える季節の折々を、竜吉公主も心から愛してはいたけれど―――。
ふいに微笑んで、指先だけで太乙から身を離し、公主はそっと太乙の視線を捕らえた。まなざしも、声すらもかぐわしく感じられるそのしぐさ。いったいどんな男が逃げられるだろうか―――警鐘は消えぬまま、頭の片隅で、ただ彼女にとらわれる自分を太乙は感じる。妲己の誘惑の術を、彼女が素のまま会得しているのではないかと疑われるほどに。
公主はふと、思い付いたように笑う。彼の内心の焦りなど知らぬげに。しかし、これで太乙は観念した。
―――見通されている。
もとより、そんなことはすべて承知の上で、この庵に足を運んでいたのだが―――。
「…たとえ皮膜がなくとも、私は空を飛ぶことができる」
噛んで含めるような声音が、太乙の頬をなぞった。
「太公望には四不象がいるな。雷震子や楊ゼン、ナタク…そうそう、三姉妹も忘れてはならぬか」
「公主…」
「どれだけ不利だとしても、行くことになろうよ。…みな、行くじゃろう。たとえ飛べずとも。力が及ばずとも」
「……」
無言で見返す太乙に、公主は穏やかに、目をそらし続けてきた事実を突き付ける。
「もし行かぬとて、誰も咎めまい。けれど、人間界の戦が終わったとしても―――この計画は、まだ終わらぬ…」
「……」
「…無茶でも、無謀でも」
私も行く、と。言葉でなく告げて、公主は口を閉ざした。
返答を待つかのように沈黙が降りる。
空気も、時間すらも、彼女に操られているような錯覚に陥る。いや、錯覚じゃない―――太乙はそう認識し、軽く目を閉じて彼女の視線を遮った。
「…私に、あなたの無茶の片棒を担げって言いたいんだね?」
「ひどい言い草じゃな」
公主は肩を竦め、まだ背に回されたままの太乙の手をすり抜けた。それから軽く首をかしげ、またいたずらを思い付いた子供のような表情を作る。
「でも、…そうじゃな。そういうことにしておくと良い」
にこやかに笑って、太乙の返答を封じる。それは彼に、逃げ道を用意すること。
仙界大戦が終わり、この数ヶ月。
太乙を知る多くの仙道たちの予想に反し、彼は研究室の再建を行わなかった。休止期間は、竜吉公主の庵の完成の後もずっと続いた。宝貝を造ることに生の意義を感じていたはずの男が、日がな惰眠を貪り、ナタクの修理以外あらゆる宝貝との接触を断っている。大勢の疑問も追及も、公主のこの庵には届かない。避難所の代わりとばかりここにくる男を、彼女は今日まで何一つ追求せずに迎えいれた。
ただ迷っている彼の心を、女主人が知っていることは承知の上で―――。
「…それは、駄目だよ」
ぽつりとつぶやき、太乙はまた公主の手を取った。
「わかってるんだ。あなたのわがままじゃ、ない。私の、わがままだ」
「…わがままではなかろう?」
「ううん、わがままなんだよ。…私はね、公主。いつもそうなんだ」
春の雨の降り続く外に、太乙は視線を投げる。
「わかってるんだよ。作ったものがどんな風に使われるかとか、誰の役に立つのかとか。宝貝なんか、いつも…戦いに使われて、誰かを傷つけるためにあるって、わかってる」
戦いの中で死んでいった、たくさんの仙人たちを覚えている。
嘆きも、涙も、目に焼き付いている。
「それでも、ね。作るのが、楽しいんだ。他のことを、全部忘れてしまうくらい」
…作っている間が、一番、忘れていられる。
彼女のそばで、落ち着いた穏やかな時間を過ごしていても、ぬぐい切れない悔恨と寂寥ですら―――たとえ片時であっても、忘れてしまえる。
それが、怖くて。
「……」
竜吉公主はひそやかに笑みを浮かべ、取られた手をそのまま太乙にあずけた。
「知っている」
視線を窓から外に投げやった彼女に習い、太乙もその先を眺めやる。
ここからでは到底見ることは叶わぬが―――そちらの方角には、崑崙と金鰲の落ちた場所があるはずだ。
落ちて壊れたままとは言え、多くの技術と秘術が、瓦礫と岩石の下に埋もれたままになっている。仙人というより技術者だとみずからを任じている太乙が、きっと嬉々として発掘と研究に当たるだろうと、彼を知るほとんどの者たちが考えていた。
だが大方の予想に反し、玩具が目の前に転がった状態だというのに、太乙は見向きもしなかった。
…見ないように、視線を逸らしたままでいた。
「あれは、私一人のものじゃない」
「…そうじゃな」
「仙界の二大勢力から技術を得ることが、これからどんな事態を生むか、私はちゃんと知っている」
「……」
「…でも、ね」
少しだけ頷いて、太乙は公主を見やった。彼の視線をまっすぐに受ける瞳は、まるで鏡のようにも思われる。
嘘も偽りも、無意味だと。
「…うん。やっぱり、やってみたい、かな」
ためらいながらも、そう告げてみる。後戻りできなくなることを知りながら。
ここでこうして眠り続けて。まるで戦争など無関係だという顔でいることが、かなわなくなると知りながら。
元より崑崙の中枢たる十二仙の身で、そのようなことが許されるはずも無いのだが。
「…そうか」
公主がつぶやく。それに力を得て、太乙は更に自らの逃げ道をふさいだ。
「うん。それに―――避けられないことなら、できることをしないと、ね」
「……」
無言で頷き、公主はわずかの間、笑みを消した。
本当は彼にこうして決意を促すことが、正しいかどうかわからずにいる。
崑崙と金鰲、二つの山が落ち、太公望は戦いの足がかりとなる拠点を失った。人の身には長すぎる年月をかけて形作られていった天空の仙人界。十天君のすべて、十二仙のうちの十が失われ、元始天尊も傷ついた今、喩え小なりと以前の技術力を復活させる能力があるのは、一人太乙のみ。
彼に寄せられる期待も、この数ヶ月に対する失望も、太乙は承知の上で応じていないというのに、自分が口を出すようなことではないと思っていた。仙界大戦に姿を現さなかった妲己が、最終的に何を企んでいるのかも未だに不明。太乙が手をこまねいていたとて、責められる筋ではないはずだと。
けれども。
太公望が太上老君を探しに発ったと聞いたとき、表情に走った確かな動揺を、公主は見逃すことができなかった。
仙界の大戦で、その背に重過ぎる荷を背負った、太公望を筆頭とする仙人たち。
たとえ彼らが責を負うことを厭わぬとしても、自分もその荷をわずかでも分かち持つべきであろうと、公主は自身に任じている。
―――太乙にしてもそれは同じなのだと。ただ、恐れているのだと。気づいてしまった自分を疎ましく思いながらも、少しだけ、背を押してみることにした。
(我ながら、おせっかいなことじゃ…)
太乙はまだ、どこか吹っ切れないような目をしている。
「…あのさ、公主」
表情を改めて公主に相対し、太乙は真剣な声音を造った。
「あのね。もし戦いが始まるとして―――本当に、あなたも行くの?」
「……?」
自分の思考とは離れたことを問われ、公主は首をかしげた。
「本当に、とは?」
「……思いとどまる気はないの?」
「ないが」
あっさりと答えられて、太乙はがっくりと脱力した。
いつまでもぐずぐずしている自分に呆れ、尻を引っぱたくために自分も行くとほのめかしただけ―――というようなことをこの女性がしないと承知してはいても、どこかで期待してしまっていた。
彼女の強さも、反して自由の利かぬ体へのもどかしさも知っている。
太乙にしてみれば、公主だけは蚊帳の外に置いておきたいのだが、この佳人は決してそれを潔しとはしないのだ。
「空気清浄器、造らないつもりだって言ったら、だめ?」
「かまわぬよ。それでも一緒に行くつもりじゃからな」
「…はいはい」
呆れたような返答を受けて、彼がいつもの調子を取り戻しつつあるのを感じ、公主は内心で胸をなで下ろす。
この庵が彼の避難場所となるのも、おそらくは今日限り。
お誂え向きに、雨の空が、少しずつ明るさを取り戻していく。この風景をいとおしみながらも、来る戦いに備えることを、女仙は密かに決意している。
彼がわずか、ため息を漏らすのを聞いても、覆されることの無い意志。
―――それもまた、太乙をして足を踏み出すことをためらわせる一因となっている。
自分ごときに止められはしないと、諦めに似た思いを抱きながらも。
「長い休みが終わっちゃうなあ…」
彼女に倣って空を見上げながら太乙がぼやいた。公主は肩をすくめる。
「何を言う。おぬしにはこれからが楽しみであろうよ」
「そりゃそうだけど」
さらりと音をたてて、公主の胸に、太乙の頭がもたれかかった。
「…今日はまだ、休み」
「ほう?」
「もう少しだけ…」
先ほどとは違う熱のこもった唇が、公主の耳朶に触れる。太乙の肩から、袷がするりと落ちる。
戦いから離れた夢を、見ていたい。
音ではなく告げられた言葉を、公主は彼の背に回した腕で受け止める。
―――地上の雨は、優しいけれど。
今ばかりはと、花の香りを閉じ込めて、御簾が静かに降りた。
―――End 2002/03/03