帰る日まで





 長い戦争だ。
 兵士たちの誰も、もう戦の発端だの意義だのを覚えていない。思い出したように訓示はある、また上官も「国のために」と突撃を命じる。だが戦うのは自分のため。目の前の敵を、あるいは敵となる可能性のある敵国人を、生きるために殺している。ただそれだけ。
 開戦当初に徴兵された軍は、かつて国境だった街、今はどちらの国のものともつかぬ激戦地でもう二年も戦っている。出発時から考えて、半数以上の兵が入れ替わった。故郷に帰ったのではない。ただ死者の補充だ。
 その日も日暮れの戦地で、日課となっている戦闘が終わった。潅木の茂るなだらかな土地は、塹壕の起伏だけが連なる。兵士たちは疲れた足を引き摺って、漸う陣地までの道をたどっていく。軍服の灰色が夕陽を浴びて黒い。この間にも潜り込んだ敵の奇襲をおそれ、目を周囲に走らせることは怠りない。
 最近上等兵に昇進した男が一人、銃を肩にかついで地べたに座り込んだ。定位置と決めている廃屋の壁に、肩だけ触れさせて寄りかかる。周囲にまた、同じ境遇の男たちが寝転がる。しなびた顔色は疲労に濃く彩られ、たちまちのうちに眠りのうちに落ちていく。
 一年の約束だった出発の日からもう二年が過ぎている。支給品の粗末な銃は、さして敵の血に染まることもなく、また軍服が彼の血を浴びることもなかった。だが彼の隣で突撃いた同郷の友は、今ではその妻が手渡したお守りに赤黒い染みを残すだけだ。彼の血飛沫を目の当たりにしたとき、自らが撃たれたように男は感じたが、一滴の涙も出なかった。
 男はただの農夫だった。彼にもまた、故郷に待っている家族がいた。妻の弟に田畑を任せてきたが、彼もまたすぐに徴兵されたと聞いている。老いた父と母もいる。どれだけ不安な思いで彼の帰りを待っていることだろう。
 手紙は時折、思い出したように手元にやってくる。どうやらこちらから出したものはほとんど届いていないらしい。それでもけなげに、またたくましく家を守りながら、彼の家族たちもまた厳しい自然と戦っている。
 暮れる空を仰ぎ見て嘆息する。宿舎は一応整えられているが寝床の数が足りず、兵は何人かずつ交代で外に出された。男が今いるのは、外では比較的安全とされる場所だが、もろい土の壁は砲弾で簡単に吹き飛ぶだろう。
 それでも男はそこに座る。壁には小さい文字の列が消えかけて残っている。子供の落書きだ。
 二年前に男はその字を見ていた。
 そこはかつて、国境を離れて最初に出会う、人が生を営む場所だった。無粋な宿舎ではなく小さな猟師小屋があり、廃屋ではなく高床の穀物倉庫があった。小さな村は、時流から忘れ去られたように静かだった。
 戦のために男手がとられ、小屋はみなさびれていたけれど。
 その先にある小さな城塞が目当てだった軍は、村を通過するだけで攻撃はしなかった。女と子供ばかりで生きる貧しい人たち。これから彼女たちの夫と戦うかもしれないと思うと、男は妙な気分になった。だが彼女たちは何も言うことなく、ぞろぞろと続く軍をただ見送っていた。
 近くに野営して数日、歩哨でこの村に戻った男の目には、ささやかな日常生活が映った。武器を持つ男に警戒の目を向けながらも、薪を割る斧は武器にはならない。貴重な井戸水をそっと汲んで運ぶ若い娘がいた。男に厳しい視線を向けながらも、母を手伝って野菜を干す少年がいた。戦場の中の村、けれどと切れがちに流れる優しい童歌は、節も言葉も違うのに、故郷の子守り歌を思い起こさせる。夕の炊事の煙を見ながら、ここを戦場にしないで済んだことを、どこか嬉しく思っていた。
 けれど今、かの村は焼き尽くされて跡形もない。彼らに続いた軍が徴発を行った末のこと。村人は逃げたか殺されたか、いくつか転がっていた焼け焦げた遺体のほかは、影一つ残っていないと聞く。
 ぱたぱたと頭を振り、男は膝を抱え直した。あの子たちはどうしただろう、やさしい歌を歌っていた子供たち。彼がだれなのか知ることもなく、母の手にぶら下がっていた幼子は。
 壁に書かれた文字―――「ぼくの家」。炭で書かれたたどたどしい綴りが、声にならぬ声で男に呼びかける。
 今ここに満ちるのは、人の臭気と鉄の音が織り成す、ひんやりした静寂。銃声が遠く鳴る。遺体を埋める穴を掘る音。怪我人のうめき声に顔に耳をふさぐこともなくなった。
 そんなものを聞きたいとは思わないのに。
 子供がかがんだ高さにある文字を、通りかかる兵たちはいつも無視した。「ぼくの家」。今は廃虚となっている家。この言葉だけが寂しく沈黙をかもしている家。
 あの歌を歌っていたのは、どんな子だっただろう?
 確かに聞いて覚えた歌。思い返そうとして、男の口からふと漏れたのは、しかし彼の故郷の子守歌だ。
 臆病に丸まっている戦友たちが跳ね起き、非難がましい視線を投げてよこす。男は口を閉ざし、また膝を抱えた。
 思い返そうとする努力をあきらめて。
 記憶の奥底に眠っているやさしい歌。それを自分に歌ってくれた人たちのことを思いながら、男は傍らに銃をかき寄せて目を閉じた。


―――End 99/01/23





そのまんま「天舞」の「帰る日まで」より。
三国志の曲ですが、帰りたいというのは、
戦争に駆り出される万民普遍の思いかなーということで…。
…どうも外してる気がしますが…。




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