Transmission of Heat




「はっくしゅん!」
 午後の音井ロボット研究所に、盛大なくしゃみの声が響く。
 常であれば、これにシグナルの変形音が続くのだが、この日は違っていた。そのくしゃみの主が信彦ではなく、風邪をひきこんだクリスだったからである。
 部屋の隅で所在なさそうに座っていたパルスが、顔を上げてベッドの上の彼女を見た。だがクリスは頭の上まで毛布をかぶり、完全に彼を無視している。パルスも特に彼女を気遣うそぶりは見せず、また椅子に深く体を沈めた。意外と片付いた部屋のテーブルの上には、今は風邪薬と水差しが置かれている。
 咳き込む声が作る薄い沈黙。しかし会話がないのは風邪の熱のせいではない。クリスがとにかく腹を立てているためだ。下手に声をかけると罵声が跳ね返ってくるので、パルスは口を閉ざしている。両手のブレードが看病のために外されていて、なんとも落ち着かない気分なのだが。
 元気の良いノックの音がその膠着状態を緩和した。
「クリスねーちゃん、具合どう?」
「…最悪」
 部屋のドアから顔を覗かせた信彦にかすれた声で答え、クリスは頭だけ布団から出した。
「あ、信彦、それ以上…寄るんじゃないわよ。うつったらまた面倒…だからね」
 いつものはきはきした口調も今はとぎれがちだ。信彦は肩を竦めてその言葉に従った。現在のクリスと同じ頻度でくしゃみをするはめになったら、迷惑を被るのはシグナルだ。―――実は見てみたい気がするのだが、とにかくやっかいであることは間違いない。
「それと、これ。持っていって」
「持っていって、って…」
 クリスが指差した先にあるのは―――否、いるのは、パルスだった。
「邪魔なの」
「駄目だよ。パルスはねーちゃんの面倒見るってことに」
「じゃ、ま、なのっ」
 がば、と起き上がってクリスはぎっとパルスをにらんだ。にらまれた方は悠然と立ちあがり、ベッドにつかつかと近寄った。信彦のおかげで膠着が解け、少し安堵していたのだが、発した言葉はかなりぞんざいだった。
「大声を出すな。咳が出るだろう」
「だっ…誰のせいだと―――」
 思ってんのよ! と続けたかったところだが、パルスの言葉は正しかった。思い切り咳こんでしまったクリスを、呆れている様にしか見えない顔でパルスが見下ろす。信彦はこっそりと、こちらは本当に呆れて肩を竦めた。
 しばらく咽ていたクリスは、呼吸が落ち着くと、くらくらする頭を押さえながら枕に頭を乗せた。それでも横目の視線はパルスを睨み付けたままだ。
「…人が、家事にいそしんでたっていうのに、あんたたちときたら散らかす一方で、しかも」
 嗄れた喉から、もう何度目になるかわからない恨み言が飛び出す。
「水撒きしてるときに、ホースを切るって、どういう馬鹿よっ」
 今日の午前中の突発事である。居間の窓から外に飛び出したシグナルを追って、パルスのブレードが翻った。切れたのは窓枠とガラス、そしてたまたま家に近い場所を這っていた使用中のホース。そして当然の結果として、切り口からは盛大に水がぶちまけられた。水撒きに専念していたクリスに向かって。
 今、日本はほぼ全国的に真冬である。トッカリタウンも他に漏れず寒風が吹きすさんでいる。こんな季節に、戸外で、頭から冷水をかぶることになってしまったら―――それはもう、風邪をひいてしまっても仕方のないところと言えよう。
 ちなみに、シグナルは現在、台風一過の居間を惨状から回復するのにおおわらわだ。
「だからすまなかったと何度も言っただろう」
「言われたからって治る訳じゃないでしょっ」
「……」
 何度目の堂々巡りだろうか。一応責任を感じてはいるパルスは反論をあきらめ、代わりに布団をクリスの頭から掛け直した。肩が出ていて冷えるだろうと、気を遣ってのことである。が。
「…あのさあパルス、あんまり下手なことしない方がいいんじゃないの?」
 信彦が呆れ顔でつぶやいた。パルスの行動の結果、布団ごと押え込まれる形になったクリスが、顔を出した後どうなるかはわかりきったことである。まず手だけ布団から外に出てきたところで、信彦はそろそろと部屋から退散した。
 ほっといてほしい、というのがクリスの偽らざる気持ちだ。パルスがここにいても腹が立つばかりなのだ。
 今日は音井教授と正信とみのる、加えてカルマがそろって出かけてしまっている。帰りの予定は明日だ。だから今日は、頼まれた最低限の家事以外、好きなことをして過ごすつもりでいたのだ。冬のバーゲンと、お気に入りのイタリア料理店の新作パスタ。新しいCDも物色したかったし、読み止しの本も何冊かある。けれど風邪のおかげですべてだめになってしまった。おまけに料理の出来る者がいない。この家にはカルマが嫌うのでレトルト食品もなく、彼女と信彦の食事はシグナルが買ってきたコンビニ弁当ですまされた。―――風邪の身にはとても不味かった。
 結構長い間一緒に暮らして、メンテナンスも担当している仲だ。パルスが彼女のことを心配してくれていることくらい、さすがにわかっている。しかし、だからと言って、この煮えくり返る思いがおさまるわけではない。
 クリスは彼女の枕元まで落ちてきていたパルスの髪を思いっきりつかんだ。
「…出て行かなかったら、この髪、ぶった切ってやるから。あんたも、熱出せば、このしんどさがわかるわよっ」
 地の底から這い出るような声と完璧に座りきった目に、さすがのパルスも少々腰が引けた。が、髪をつかまれる感触は、すぐに弱くなり、消えてなくなった。軽い音を立ててシーツに落ちた腕。ひどく赤い色をした頬は、汗でじっとりと濡れている。
「―――クリス!?」
 名を呼ぶ声に返答はない。額に触れたパルスの指を伝わってくる熱は、先ほど測ったときよりもはるかに高くなっていた。


「…まだ熱下がらないのかなあ」
 とっぷりと暮れた夜空を窓越しに見ながら、シグナルがしょんぼりした声でぼやいた。かろうじて喧嘩の後始末をしてあるリビングは、おそらくカルマが見たら再清掃を命じるだろう程度の片付き方である。
 信彦はもう就寝時間なので、今顔をそろえているのはロボットばかりだ。しかも誰も家事の役には立たない。急な呼び出しに駆けつけてくれたエララにクリスの看護を任せ、男たちは少しわびしい思いで散らかったリビングに集まっていた。
 こうなることを見越してか、クリスは最初、「薬を飲んで寝ていれば良い」と言って一人で引っ込んでいた。しかしそこにオラトリオが看護役としてパルスをほうり込んだのだ。オラトリオ自身は、それが結構良い考えだと思っていた―――パルスが反省していることも、クリスを心配していることも、「兄」の目には明らかだったから。ブレードを取り上げてパルスを部屋に押し込んだときは得意な顔をしていたのだが、結果は悪い方に転がってしまったらしい。
「まったく、お前はいつもろくな事をせんな、オラトリオ」
「師匠、きついっすよ〜」
 元凶は弟たちのはずだから、オラトリオのぼやきは間違っていない。だがコードはふんぞり返って鼻で笑った―――傍から見れば、単に鳥が胸を反らせている図であったが、少なくともオラトリオの目にはそう見えた。
「…まーだ怒ってるんすか」
「当たり前だ。こんな事でエララの手を煩わせるなど言語道断」
 コードは怒りを声ににじませてきっぱりと言った。ちなみに彼ののたまう「こんな事」とは、クリスのことではなく、弟子たちの喧嘩のことである。
 エララの予定外の来訪にもかかわらず、シグナルは元気がなかった。自分の行動がクリスに被害を及ぼしてしまったことが、思いがけずショックだったのだ。人間は修理してすぐ全快というわけにはいかない。加えて自分がリュケイオンで髪を切られたときのことも思い出してしまい、反省することしきりである。
「…に、しても」
 師匠に言い返すのをあきらめて、オラトリオはクリスの部屋の方角に目を転じた。
「パルスも結構、けなげっすよねえ」
「他に責任の取り様がないんだろう」
 コードの返答はにべもないものだったが、シグナルはオラトリオに相づちを打った。
 いま一人の戦闘型ロボットは、先ほど追い出されてからずっと、クリスの部屋の前に立ち尽くしたままでいる。照明を落とした廊下はこそりとも音がしない。彼女の機嫌が直るまで、とりあえずベッドの横に陣取るのはあきらめた。高熱の中でも精神的に威勢が良いのは結構なことだが、それで身体に負担がかかってしまっては元も子もない。
「…あの、パルスさん?」
 ドアから顔を覗かせたエララがそっと声をかけた。壁にもたれて目を閉じているパルスを眠っていると思ったのだが、彼はすぐに目を開けた。
「どうした?」
「ずっとこちらにいらしたんですか?」
 静かにドアを閉めながらエララは心配そうにたずねた。もうほぼ半日起きっぱなしと言うことで、これは常の彼からすると快挙の範囲に入る。
「まあ、な。それより、クリスは?」
「今は眠ってらっしゃいます。お薬が効いたみたい」
「…やっとか」
 パルスはほっと息をついた。咳と高熱のせいで眠れない彼女の様子が部屋の外でも察せられて、かなり気を揉んでいたのである。エララの手にした水差しは空っぽだった。
「あの、それで。クリスさんから伝言があるんですけど」
「?」
 眉を寄せたパルスの様子に、エララはおかしそうに笑った。
「もういいからさっさと寝なさい、だそうです。後でメンテすることにでもなったら大変だから、って」
 心配なさってるんですわ、とにこやかに言われて、パルスは返す言葉がなかった。エララは彼に休むよう念を押すと、小走りに階下へと姿を消した。
 パルスは閉じたドアに視線を転じ、しばし考えに沈んだ。
 クリスが風邪を引いた原因は確実に自分たちにある。先に外へと身を躱したのはシグナルだが、ブレードの使いどころを誤ったのは自分だ。ぬれねずみになった彼女は、しばらく外で風にさらされたまま二人に文句を言っていた。パルスが彼女に暖を取るよう促したのは、最初のくしゃみが飛び出した後だ。
 心配していたのは確かだ。けれどずっと怒ったまま、取りつく島もない彼女の態度に、わずかながら腹が立っていたのも事実で。
 そこにこんな風に、気遣いの言葉をかけられてしまっては…。
 …堪える。
 彼女が実際に心配してくれているのか、本当にメンテが面倒だと思っているのか、判断がつきかねるところではあったのだが。
 ぱたぱたと階段から軽い足音が聞こえた。戻ってきたエララの手にした水差しは、水がいっぱいに満たされている。
「…エララ」
「はい?」
「後は私がついている」
 パルスはエララの手から水差しを取り、きっぱりと言った。エララは瞬時迷ったような表情を見せた。彼女も、今回の事件のことは聞かされていたのだ。しかし、赤い瞳に宿る決心―――いささか情けない決心だったが―――を読み取り、軽く頷いて承諾した。
「でも、あまり無理なさらないでくださいね」
 下で待機していますから、というエララの言葉に感謝しつつ、パルスは音をたてないように暗い部屋の中へと踏み込んだ。


 喉が渇いて目が覚めた。真っ暗な部屋で目を見開き、何故こんなに身体が重いのか悩んでいると、枕元で人の動く気配がした。目に映るデジタル時計の蛍光文字盤は午前二時。自分が熱を出していたことを思い出し、クリスは寝返りを打った。
「エララ、水、ちょうだい」
 そこにいるのは当然彼女だと思って頼むと、少しためらうような沈黙が降りた。だがクリスがそれを不審に思う前に、コップに水を注ぐ音が続いた。闇に目が慣れない。身体を起こそうとすると、背に軽く手が添えられ、コップが手渡される。
「あ、ありがとう。…?」
 その手の感触に違和感を感じてクリスは首をかしげた。ベッドサイドのランプを手探りすると、先回りするように灯りが灯される。
「―――パルス!?」
 頓狂な声を上げて、クリスは水をこぼしそうになった。軽くせき込んでしまった彼女の背を、あやすように軽くパルスの手がたたく。呼吸が整うと、当然ながら出てくるのは叱責の言葉だ。
「何よあんた、なんでこんな時間に起きてんの!?」
 寝起きだということも加わって、クリスの声はかすれてざらざらしている。パルスは指で彼女の額に触れ、少しは下がっていることを確認してほっと息をついた。水を飲む彼女は、昼間ほど怒っているようには見えない。
「エララと替わってもらった」
「何言ってんの。明日教授が帰ってくるのに、一日中寝てる気?」
「もう今日だ」
 律義に訂正を入れられて、クリスは軽くため息をついた。空になったコップを受け取ってサイドテーブルに置くと、パルスは椅子に座り直した。
「もういいから、とっとと…」
「―――その前に」
 珍しく言葉を遮られて、クリスは目を瞬いた。パルスが手元に引き寄せたのは、昼からずっと外されたままの彼のブレードだ。ぱちりと音を立て、もう片方の手で髪留めを外す。髪を前に垂らし、ブレードをゆっくりと持ち上げ―――
 ざくり、と乾いた音がした。
「ちょっと、パルス!?」
 クリスは一瞬息を止めた。ベッドの上に黒い長い糸がばさばさと散らばる。
 パルスの髪。
 何瞬かの後、彼がが自分で切り落としたのだと把握して、クリスは正真正銘青ざめた。関節の痛む腕を無理矢理伸ばして彼の腕をつかむ。ブレードが腕についていないと勝手が違うのか、髪はまだ一掴み分ほどが切れているだけだ。尚も進めようとする刃の前に手を翳して止め、クリスはパルスの顔を思い切りにらみつけた。
「何やってんのよっ!」
「……」
 いつもの一見平静に見える表情のままで、パルスは彼女の顔を見返した。熱のためばかりではなく紅く染まった頬を見て、静かにブレードを床へと降ろす。
「―――どうしたら、お前の気が済むかと」
「え?」
「昼間言っていただろう。私も熱を出せば、と」
「………」
 開いた口がふさがらない。確かに冷却機関である髪を切ってしまえば、確実に熱は出るのだが。斜めに不揃いの切り口を見せる髪が、彼の真剣さ加減を如実に物語っていて、クリスは頭を抱えたい思いだった。
「誰も本気で言ってなんかっ…」
「それは、わかっているが」
 淡々と言って、パルスはまたせき込んでしまったクリスに横になるよう促した。それを聞いて、彼女は心底から悟った。パルスが心配のあまり、かなりうろたえているのだということを。
 彼の髪はシグナルと異なり、自動再生しない。一部分切れただけでも完全交換、しかも頭部の皮膚部分の接合からやり直さなくてはならないから、結構な手間がかる。
 おまけに彼は、基本的な部分でロボットらしいロボットだ。人間の肉体的な被害を回避する以外の目的で自損行動に出るなど、通常なら有り得ないのだ。
 ―――そもそも、彼が髪を切ったからと言って、クリスの熱がさがるわけではない。問題の根本的解決にならないことくらい、わかっているはずなのに、こんな理屈に合わないことをするなんて。
 とりあえずおとなしく横になりながら、クリスは視線だけパルスに向けた。
「…すまなかった」
 何度目になるかわからない謝罪だ。けれど今回は罵声は返ってこなかった。もう一度、低い静かな声で繰り返すと、クリスは大袈裟なため息をついた。
「ま、いいわ。誠意を見せてくれたってことで」
「…そうか?」
「…もう、怒ってないわよ」
 ここまでされちゃね、と長さの不揃いな髪の先に触れて、クリスは人の悪い笑みを浮かべた。パルスが少しだけ困ったような顔になるのがおかしかった。
「それに、わかってるの? その髪、誰が修理するのか」
 音井教授も若先生も、病み上がりの者を働かせたりはしない人たちなので、当然ながらパルスが一番嫌がっている人物がメンテを受け持つことになる。パルスは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「覚悟の上だ」
「ふうん、そう」
 その返答にどこか作為を感じて、パルスは眉をひそめた。
「ね、ちょっと」
 にっこりと、それこそ作ったような笑顔を浮かべてクリスが手招きした。パルスが身を乗り出すと、切れていない髪をつかんで思い切り引き寄せる。
 重力の効果も追加されて、どこが病人かと疑いたくなるほどの勢いで顔が近づいて―――そのまま唇が重なる。
 家族に贈るような軽いキス。
 とっさに状況が把握できないパルスの表情を至近距離で楽しみ、クリスはくすくすと笑った。
「クリスっ!」
「つまんない」
 珍しく表情を思い切り崩してパルスがとびすさる。クリスは余裕を持って笑いながら、うろたえる彼の要望通り手を離した。
「パルスも風邪をひければ、これでうつったのにね」
 昼間の不機嫌はどこに行った、と尋ねたくなるくらいの笑顔がそこにあった。口を押さえたまま言葉の出ないパルスを見てもう一度笑うと、クリスは「おやすみなさい」と軽く言って目を閉じてしまった。
 程なくして落ち着いた寝息が聞こえてきて、パルスは張り付いていた椅子からそっと離れた。狸寝入りではなく、本当に眠っているらしい。緊張しながら額に手を伸ばすと、まだわずかに熱かったが、かなり落ち着いてきたように思えた。
「…風邪はともかく」
 熱はうつったに違いない。
 髪は一部分しか切っていないのに、体中が熱を持ったような気がして、パルスは額を押さえて突っ伏した。
 多分彼女が全快したら、今日の調子で振り回されて、買い物も庭そうじも手伝わされるに違いない。命令口調でぽんぽんと飛ぶ指示を想像して、パルスは更に頭を抱える。
 それでも。
 薄暗いランプの灯りを頼りに視線をあげる。眠っている彼女の顔は、無防備で、どこかあどけなくも見えて。
「…近眼が進んだか」
 軽くぼやいて、人間がするようにあくびを一つ。クリスの落ち着いて規則正しい寝息をどこか安心して聞きながら、彼もまた眠りの中に落ちていった。


―――End 1999/08/18





リクエストは「甘々夫婦漫才」、クリアできてるかな…。
リクエストをいただいたのが12月だったので、内容が冬なんですが。
今って、立秋過ぎましたね…もうセミが鳴いてますね…(遠い目)
クリスちゃんの「ロボットが風邪ひくわけないじゃないの」という
台詞を見て以来書いてみたかったお話です。




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