この日を、あなたに<4>




「―――あのとき、あなたが泣いていたから…」
 ルヴァは途切れがちに口を開いた。アンジェリークが幻ではないとわかっても、驚きがまだ消えない。
「ディアと前女王陛下が聖地を去る前の日でしたね。あなたがディアに、ご両親にとことづけを渡すところを見てしまって」
「あのとき、もういらしてたんですか?」
 アンジェリークは目をまるくした。彼女の記憶では、ルヴァが姿を見せたのは、それから一時間はたってからである。
「一度戻って出直したんです。それで、やはりご両親の元に戻りたいのではないかと思ったんですよ。でももうあの時は、あなたが聖地に残ることを前提に、宇宙の移動計画の調整をしていましたから…」
 それで、アンジェリークが戻っても差し支えなくなるまで待ったのだとルヴァは言った。
「ええと、念の為に言いますけれど、決してあなたの能力だけを貴重に思っていたわけではないんですよ。ただ、宇宙にもあなたにも良い道を考えようと思って」
「ええ、わかってます」
 アンジェリークは素直に頷く。その緑の瞳でまっすぐに見詰められて、視線をそらしたくなる自分がいることにルヴァは気づいていた。
 わずかに降りた沈黙に負ける。彼にしては珍しいことだったが。
「…いろいろとね、怖かったんですよ」
「怖い?」
「はい」
 ルヴァは自嘲気味に笑った。
「あなたがもし、これから先泣くようなことがあったとしても…私はきっと、何の役にも立てないと思ったので」
「……ルヴァ様」
「それを見るのが、厭だと思ったので…だから、その」
 どう言えば良いかわからなくなってしまったルヴァの頬で、ぴしゃりと小さく音が鳴った。瞬きしたルヴァの視線の先を、アンジェリークの手がかすめた。軽く頬を叩かれたのだとわかったとき、彼女の緑の目はもう涙を溜めていた。
「ルヴァ様は、わかってないです!」
「あ、アンジェリーク。あの」
「全然、わかってないです。私、ルヴァ様が私のこと、必要ないと思ったのかと思って」
 ぼろぼろと涙があふれだして、地の守護聖は心底からうろたえた。
「それですごく悲しかったのに。ルヴァ様は私が聖地じゃないところに行って、ルヴァ様の目の届かないところで泣くのはかまわないって、そうお考えだったんですか」
「あー、とんでもない、アンジェリーク。私は…」
「私、お父さんとお母さんに会って、すごくびっくりして。ルヴァ様がお呼びしたって聞いて、ルヴァ様は私のこと、全然信用してくれてないんだと思って。私、私っ…」
 尚も言い募ろうとして、アンジェリークは何度も目をこすった。
「私、ほんとに、悲しかったんです」
 それきり言葉は鳴咽に代わってしまった。ルヴァは今、この一ヵ月で一番後悔していた。泣く彼女を見たくないからこそしたことだった。けれど逆効果どころか、こんなにも傷つけてしまうなんて。
 ルヴァは慌てて袖を返し、綺麗な布地で彼女の頬をぬぐった。そのしぐさがおかしく、けれども一度熱くなってしまった目はなかなか冷めなくて、涙は何度も白い曲線を描く頬の上を転がった。
「すみません、アンジェリーク。私が臆病だったせいです。すみません」
 ルヴァはうろたえて謝りつづけた。
「あなたを試すようなことをして…でも、あなたを信じてないわけじゃありません。信じられなかったのは、私自身なんです。あなたは、その…私にとって、とても大事な人ですから」
「…うそ」
「本当です。自分でも、よくわかってなかったんですが…あなたのためと言って、でもあなたがこちらを選ぶのを見たくて…自分が安心したかっただけなんです、多分。…ご両親のことも、大義名分みたいなもので。行ってしまうはずがないと思っても、あなたが泣いているのを見て、確認したくなって…すみません」
 言いながら、ルヴァは初めて自分の心がわかったような気がした。駄々をこねていたようなものだ。彼女は自分のものではないのに―――彼女が他の誰かのために泣くのが厭で。
 アンジェリークが濡れた目でルヴァを見上げた。袖口はすっかり湿ってしまっていたが、涙はどうにか止まりそうで、ルヴァは少しだけ息をついた。アンジェリークは自分の袖で目尻をぬぐい、かろうじて呼吸を整えた。
「…それって、ルヴァ様のわがままっていうことですか?」
「…ええ、そのとおりです」
 ずばりと言われ、ルヴァは覚悟を固めた。どう罵られても文句は言えない。嫌われることも覚悟しなくてはと、息を潜めて次の言葉を待つ。
 けれど予想に反し、アンジェリークは雲が切れるような笑顔を浮かべた。
「なんだか意外。ルヴァ様はきっと、そんなことなさらないと思ってました」
「え?」
「いつも人のことばかりだって、ゼフェル様もおっしゃってましたから」
 この「わがまま」の意味がわかっているのかいないのか、アンジェリークの言葉は実に素直にルヴァの胸に響いた。
「だから、なんだか嬉しいです。…それにやっぱり、心配してくださってたのは本当ですよね?」
「ええ、それは…でも」
 言いあぐねるルヴァをアンジェリークは押しとどめた。
「あのね、ルヴァ様。私ほんとに、こちらをいやいや選んだわけじゃないんですよ?」
「…アンジェリーク」
「私は泣き虫ですから、泣かないっていうお約束はできません…努力はしますけど。それは確かに、お父さんやお母さんや、学校の友達に会えないのは寂しいから」
 またあふれそうになる涙をこらえて一生懸命に笑い、アンジェリークは少し赤くなってしまっているルヴァの頬を軽く手で挟んだ。
「でもちゃんと、話をして来ました。お父さんもお母さんも泣いてましたけど、…それはすごく、悲しかったけど。でも私、一度選んだんです。二度選んだりしません」
 アンジェリークはいたずらっぽくルヴァをにらんだ。
「お父さんとお母さんに会って気が変わるくらいなら、最初から選びません。おわかりでしょう、ルヴァ様?」
「…そうですね」
 ルヴァはそっと手をあげて、頬に触れるアンジェリークの手首を取った。
「そうでした。あなたはそういう人でしたね」
 ルヴァはかすかに笑った。
 試験の間も試験のあとも、何度も目の当たりにした少女の輝き。たよりなさそうな笑顔の裏に秘めた意志の強さは本物だと、確かにルヴァは知っていた。困難な育成、現実の宇宙への配慮も、さすがに選ばれただけのことはあると、何度も感嘆させられたのに。
「…忘れていました。見くびってましたよ」
「ルヴァ様…?」
 頬から離れた指先にわずかに熱を感じ、アンジェリークは瞬きした。ルヴァの目からも、少しだけ滴がこぼれていた。
「…ああ、すみません。みっともないですね」
 ルヴァはアンジェリークの手を離した。少女が滴を拭いてくれたので、ルヴァは手が空いて、彼女を抱き寄せることができた。体温が身近に来て、やっと夢ではないと信じられる。抱きしめる手に力を込めて、腕の中の存在の名前を何度も呼んだ。
「長かったです…本当に。この一月、あなたがいなくて」
 金の髪をくすぐり、耳のすぐそばから声がする。それはこめられた思いごと震えていた。アンジェリークは真っ赤になりながら、それでもルヴァの背に手を伸ばす。彼女もまた、ずっとこの人に会いたかったから。
「私のほうが長かったんですよ、ルヴァ様?」
「…そうですね。そのとおりです」
 ごめんなさい、と律義に謝ってくれるので、アンジェリークは笑い声を立てた。この少女が相手だと、深刻な雰囲気はいつも最後まで続かない。
「ね、ルヴァ様。私、ひとつおねだりしても良いですか?」
「おねだり、…ですか」
「はい。する権利がありますよね?」
「ええ、それはもちろん。私にできることなら、何でも」
 体を離して目を覗き込んだルヴァに、いたずらっぽい声で少女はささやいた。
「お誕生日を一日、私に下さい」
「誕生日を?」
「はい。さっき宮殿に寄ったら、ルヴァ様がお誕生日の行事を全部断ってしまったって、マルセル様がぼやいてらしたので」
 せっかくだから一緒にと提案されて、はた、とルヴァは思い出した。彼はもうじき誕生日だということを、さっきまですっかり失念していたのだ。マルセルに提案されたときも上の空で、そんな気分ではないと受け流してしまっていた。最後のアンジェリークとの会話がこの話題だったので、思い出したくなくて敢えて避けていたところもある。
「いかがですか、ルヴァ様」
 少し不安そうに見つめられて、ルヴァは心の中でマルセルに謝罪した。
「ええ、喜んで、アンジェリーク。まるごと一日、一緒にすごしましょうね」
 アンジェリークは歓声を上げてルヴァの手を取った。引かれるままに歩き始めながら、ルヴァは心底から安心している自分を感じていた。ひどいことをしたという自覚はある。けれどそれを彼女が許してくれたことが、何よりも嬉しかった。
 どんな償いでもしようと思う。そして本当に許してもらえるなら、誕生日だけではなく、これから全部の日を、あなたと共に過ごしたい。―――いつかそう言えたらと、ルヴァは少女の明るい髪をまぶしく見つめながら思った。


「―――だがやはり、二人っきりっていうのはいただけないな」
 オスカーが言うと、その場にいた全員が一斉に頷いた。宮殿の広間に、ルヴァを除く守護聖全員と女王が集っている。端に控えた侍女が笑いをこらえた顔でうつむいていた。彼女はこれから以前の勤め先、補佐官の館に戻ることになっている。
「この一月で、十分罰になったとは思うが」
「…余計な気を回したのがルヴァの間違いのもとだな」
「でも僕たちだって、アンジェに会えなくて寂しい思いをしたんだから。まだまだルヴァ様に一人占めはさせてあげられません」
「そのとおりだわね、マルちゃん。このままハッピーエンドじゃちょっとばかり癪だし。とりあえず、嫌がらせしてやりましょ」
「嫌がらせは、ちょっといただけないけど…やっぱり、二人だけでお祝いするより、みんなのほうが良いですよね。盛大なパーティをやりましょうか」
「それ、俺も賛成。ちょっと考えてることがあんだよ。新開発のメカで。当日のお楽しみってやつだ」
「―――では私は、楽士の選定をしましょうか。なるべく大勢で楽しめるように」
「私ももちろん参加しますわ。会場はここ、宮殿の広間でよろしいわね?」
 賛同する一同の背後で、従者たちが張り切って姿勢を正す。パーティとあれば彼らの腕の見せ所だ。
 地の守護聖と補佐官が落ち着いた時間を過ごせるのは、どうやらもう少し先のことになりそうだった。

1998/07/12 脱稿





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