この日を、あなたに<3>
馬鹿だ馬鹿だと、いったい何度言われただろうか。ゼフェルのみならず、オスカーやオリヴィエからも。クラヴィスにまで「愚か」と言われてしまった。
今や補佐官の館は無人である。勤めていた従者や侍女たちは、現在は宮殿で新たな任に就いており、館の門には厳重に施錠がなされた。アンジェリークが去った翌々日から時間の流れが変わり始め、聖地はまた外界と大きく隔てられた。門は堅く閉ざされ、容易には開かない。
ルヴァは館に引きこもりがちになった。傍らに積みあがる本も、先日までのようには彼の関心を引かない。宮殿に詰めても、図書館や公園や森の湖に出かけても、こんなにもあの金の髪の少女と共に過ごしていたのだと思い知らされるばかりで。
そしてルヴァは、彼女がいなくなってから四度目の木の曜日を迎えていた。
執務に凡ミス―――かつてのルヴァには決してみられなかった不注意によるミスが増えている。自分でもそれはよくわかっていたが、今朝ジュリアスに呼び出され、しばしの休暇を言い渡されたのはさすがにショックだった。
「自業自得だろう。自分で立ち直れ」
にべもなく言い渡され、ルヴァはよろめくような足取りで光の守護聖の執務室を出た。すれ違ったオスカーがちらりと彼を見下ろしたのも、ランディとマルセルが彼に何かを話したそうにしているのも、リュミエールがどこか気の毒そうに視線を向けていたのにも気づかなかった。
アンジェリークが聖地を去ることをルヴァは覚悟していた。そのつもりだった。だがあの日、そのことを告げられたルヴァは、ひどく打ちのめされた自分がそこにいるのを悟った。
どちらを選んでも仕方がない、と思っていたはずなのだ。どちらを選んでもそれは彼女の意志だと。どちらかの世界に改めて訣別する悲しみ、その選択を突きつける残酷は、ゼフェルに言われるまでもなく承知していた。
けれど、彼女はそれを乗り越えると、ルヴァは思い込んでいたのだ。結局は聖地を選ぶのではないかと、心のどこかで期待していた。アンジェリークに寄せられる信頼、彼女自身の責任感が、きっとこちらを選ばせるのではないかと。
ここで自分のために、とは露ほども思わなかったあたりがルヴァの救われないところかもしれない。彼はアンジェリークに何一つ告げてはいなかった。一緒にいられることがどれだけ嬉しいか。彼女が聖地に残ってくれたことを、どれだけ喜んでいたかすら。
まさか最後に会うこともなく姿を消されてしまうとは、思いもよらなかったのだ。ひどく打ちのめされた自分を恨みながら、後悔を背負って日々を過ごすことになるとも思わなかった。
昼前に戻った館の書斎は柔らかい採光で、彼が何より好む場所のひとつだったが、ここもまたアンジェリークの笑顔と共にあった場所だった。ルヴァはため息をついて本を閉じた。まるで集中できなかった。
地の館の執事は、出かけていく主のおぼつかない足取りを心もとなげに見送った。ルヴァにもどこという当てがあるわけではなかったが、なるべく彼女の思い出の無い場所をさがそうと思っていた。だが足は彼の意志を裏切る。
いつの間にか補佐官の館への道をたどっている自分に気づき、ルヴァは内心で苦笑した。ここしばらく、人影の失せたここをとおりがかる度に、癖のようにあの門を見ている。だがそこは常に閉ざされ、ルヴァの望む風景が得られたことはない。
だが今日はいつもと違っていた。
門の前に佇む人影を見て、ルヴァの足が止まる。それはよく知っている人物のように思われた。柔らかい金の髪は少し長くのび、服もシンプルでリボンも無い。ふりかえったその顔は大人びて、けれど見間違え様もなく―――。
「あ…アンジェリーク!?」
「ルヴァ様!」
アンジェリークはルヴァを見るなり顔を強張らせた。細いパンプスの足が後ずさる。逃げられる、ととっさに思い、ルヴァはいままでの人生で一番すばやく動いた。
がしゃん、と門が無粋な音を立てた。ルヴァはアンジェリークの両脇の鉄柵をつかみ、手の中に彼女を囲い込んでしまった。背中を柵にぶつけたアンジェリークが抗議の声を上げる。
「…っ、ルヴァ様っ」
「あ、すみません…」
謝りながらも、ルヴァは手を離そうとしなかった。目の前にアンジェリークがいるのが信じられない。あまりに驚いた顔をされて、アンジェリークも少しだけ表情を和らげた。
「…あの、本当に。アンジェリーク…?」
「そうです、ルヴァ様」
じっと見詰められて、アンジェリークは少し目を細めた。
「何も、聞いていらっしゃらないですか?」
「…ええと、何を」
頭の回転が戻らず、ルヴァはほうけたように問い返した。
「私、高校を卒業してきたんです」
「卒業…?」
「はい。戻った時は三年生になってましたから、そのまま卒業まで七ヵ月、学校に通いました。補佐官に任命された時点で、卒業資格をいただけてたんですが、籍を戻してもらったんです」
もう十八才です、とアンジェリークはにっこりと笑った。ルヴァは柵から手を離したが、まだ幻ではないかという気がして呆然としていた。
アンジェリークは苦笑して、ルヴァに種明かしをしてみせた。
「お父さんもお母さんも、どうしても補佐官になりたいなら止めないと言ってくれました。でも女王になれなかったわけだから、せめて高校は卒業してほしいって言われて。…それで私も、お父さんとお母さんの言うことも尤もだから、家に帰ることにしました。でも本当は最初から、卒業したら一度聖地に戻ることになってたんです」
「一度…ですか」
「ずっと残るかどうかはまだ決めてません。確かめてから決めます」
「…確かめる?」
「そうです。ルヴァ様のことを」
やっと頭の回転が戻ってきたルヴァを、アンジェリークは真っ直ぐに見詰めた。
「今回のこと、ロザリア…女王陛下と相談して、ルヴァ様以外の守護聖様たちには知らせてました。でも、ルヴァ様には内緒にしてもらってたんです」
「…どうしてですか」
「本当のことが聞きたかったから」
きっぱりと、心から勇気を奮い起こしながら、アンジェリークはルヴァに問いを突きつけた。
「ルヴァ様、どうして私に内緒で、こんなことを計画したんですか?」
聞かれてしまった、ととっさに思い、ルヴァはわずかに視線を伏せた。
今度会えたらきちんと言わなければ、と何度も考えた。何も言わないうちに行かれてしまう、あの思いを繰り返したくはないから。だがそれが実現可能だとは、少しも思っていなかったのもまた事実で。
だが、緑の瞳はルヴァに逃げることを許さなかった。この宝石に勝てたためしは一度としてない。
ルヴァもまた、彼女の目を正直に見返した。