祈り




 この日、夜の闇をついて、聖地に暴風雨が吹き荒れた。
 雷鳴と横殴りの雨を、しかし二の次においてカティスは馬を駆る。この程度の風雨は年にほんの数回、王立研究院の気象コントロールで設定されることがあるから、特に気にかけることでもない。だが、つい先ほど起こった異変は、聖地に起こるはずのないこと。
 地震。
 脅える使用人たちをとりあえずなだめてから、カティスは館を飛び出した。守護聖たる彼に、そして彼の影響を如実に受ける大地にはわかる。地のサクリアの異常な混乱。その力を人の姿で体現する者の、すさまじいまでの感情の波が宇宙すべてを震わせている。
 彼―――まだ十七歳の少年だが、思慮深い為人を誰からも認められているルヴァ。その彼をこれほどまで動揺させる事態―――いやな予感が胸をかすめる。
 王立研究院の前に馬を止める。ここ数日、ルヴァはこの奥の間に詰め切りだった。ずぶぬれのマントを体からはがすのももどかしく、カティスは雫を散らしながら廊下を急ぐ。誰かが先に行ったものらしく、雨と土の混じった足跡がカティスの前に伸びていた。
「―――カティス」
 横合いから呼びかける声がして、カティスは視線だけをそちらに向けた。
「お、クラヴィス。お前も来たのか」
「さっき着いた」
 足を止めないカティスに並びながら、クラヴィスは淡々と言った。髪も服も、まったく雨に降られた様子が無いあたりが彼らしい。
「あんなところで何をしていたんだ?」
 問われてクラヴィスは床の足跡を指差した。
「あれが先に行っている」
「……」
 カティスはやれやれ、とため息をついた。あれ、とはすなわち光の守護聖だ。
「こんなときまで、という顔だな」
「いや、いつものことで心強いさ」
 皮肉でもなくカティスは言った。こうして研究院の奥まで入ってしまうと、風雨はわからないが、時折微少な揺れがあることは感じられる。
「研究院では、今夜の天気は雷雨に設定してあったそうだ」
 淡々とクラヴィスが告げると、カティスは軽く息をついた。
「じゃあやっぱり、天気の方はサクリアの暴走というわけじゃないんだな」
「…地震だけでも結構な暴走だと思うが」
「確かに。でも、地のサクリアと直接関係のない事象にまで影響を及ぼすほどの事態かと思って、結構焦ってたんだ」
「…本人にしてみたら、それほどの事態かもしれないが」
「………」
 カティスは眉をひそめた。闇の守護聖は、本質をきちんと見抜く力を持っているがゆえに、却ってあまり物事を深刻に捉える質ではない。だが今のそっけない応えの中には、紛うことなき重い懸念が潜んでいた。
 通りなれた廊下が、今日はやけに遠く感じる。ルヴァの直面している「事態」を、カティスもまた一応は承知していたから。
「よりによった天気の選択だな」
 ぽつりとつぶやいたのは、この重い心を何かに転嫁してしまいたかったからかもしれない。
 奥の間に続く最後の廊下を曲がると、光度の抑えられた照明が柔らかく二人を包む。だが目指す開け放たれた扉の向こうからは、光の守護聖が仲間を案じる堅い声が響いていた。
「ルヴァ。しっかりしないか。力をきちんと制御しろ」
「ジュリアス?」
 聞きとがめて、カティスは歩調を速めた。
 力が注がれぬ時には、静謐をたたえる水盤のような遠見の池。常であれば鏡と見まごうその面は、カティスが奥の間に飛び込んだとき、地のサクリアの暴走を受けて嵐の海のように波立っていた。はたに控えた研究員が、すがるようなまなざしをカティスに向けた。
「ルヴァ!」
 池の縁にうずくまるルヴァの肩を、光の守護聖は強く揺さぶった。
「いつものお前はどこに行ったのだ。しっかりしろ」
 片手で頭を抱え、片手で床に手をついたルヴァは、ジュリアスの言葉にちゃんとうなずきを返した。だが波は止まらず、ジュリアスの形のよい眉が一層ひそめられる。カティスはまっすぐに二人のそばに寄り、そっとルヴァの体を抱き起こした。布越しにかたどられる肩の線はか細く、カティスはこの数日のルヴァの疲労を思った。
「…カティス」
 灰の掛かった青の瞳は、目の前の二人を捕らえながらも少しうつろだった。クラヴィスが剣呑な視線をジュリアスに投げる。光の守護聖の思いやりは、しばしば叱咤の形をとって現れる。だがそれは、今回のルヴァには酷なはずだ。ジュリアスもそれを承知してか、後から来た二人に向けてわずかにほっとした表情を見せた。クラヴィスがいるときには珍しいことである。
 黒衣の少年の冷えた手が額に触れ、安らぎのサクリアがルヴァの身のうちに満たされる。肩に置かれたジュリアスとカティスの手がそれに力を与えた。徐々に穏やかさを取り戻していく波面に、研究員たちの間にもほっとした空気が流れる。
「…収まったか」
 クラヴィスがぼそりとつぶやいた。それは地の揺れをさした言葉だとカティスは気づいた。ルヴァは彼を取り囲む三人の顔を順に見回し、やがて今まで自分がどういう状態だったかをはっきりと悟った。ジュリアスが飛び込んで来るまで、力が暴走していることにも気づいていなかったのだが。
「すみません、心配をおかけしてしまって。あ、…あの。もしかして外も…?」
 カティスがずぶぬれなのに気がついて、ルヴァはおそるおそる尋ねた。下がってしまった前髪を後ろに撫で付けながら、カティスは努めて明るく否定する。
「いや、これは元々の天気だ」
「お誂え向きと言えるな」
 クラヴィスはつぶやくと指を離し、池まで上る短いきざはしにルヴァを座らせるよう促した。だがルヴァは弱々しく、しかし断固として頭を横に振った。
「ルヴァ、でもこのままじゃ、お前ももたないぞ」
「…ごめんなさい。でも、最後まで見ていないと」
 立ち上がろうとして足元がふらつく。だが助けの手を受けようとせず、床に座り直して、ルヴァはまた水面を見つめた。その背は「ここから動かない」と頑なに決意していて、三人はかける言葉を失ってしまう。
 水面に映っているのは砂の星。特に監視の必要の無い、自身の変化の流れに任せていられる星である。だがそこはルヴァにとって特別な場所だ。彼の生命を生み出し、彼と同じ親から生まれた生命が住まう星。
 砂の端に引っ掛かっているわずかな緑の土地が大きく映し出されていく。背の低い建物が輪郭を現し、ルヴァの視線はその一隅に注がれた。清潔そうな白いシーツの上に、老境に差し掛かった男が横たわっている。
 それがルヴァの弟だと、ここが聖地でなければ誰も信じなかっただろう。



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