祈り<3>




 目の前で、自らに連なる命が一つ失われていく。光と闇の守護聖が左右から支えるのも気づかぬまま、ルヴァはその光景を食い入るように見詰めた。日に晒されることの少ない指先が、強く握り締められて一層血の気を失う。
 砂漠の星に特有の風土病。この聖地の医学であれば、さほどの苦もなく治療できるもの。なのに手を差し伸べることは許されない。
 異変を察知した他の守護聖たちが、一人また一人と奥の間に集ってくる。音もなく立ち尽くす彼らは、その光景の意味するところを明確に悟っている。我が身に振り替えてルヴァを気遣いながら、それでも言葉の無力を確認するだけの無為な時間。
 また足音を顰めた研究員が静かに入ってきた。九人全員がそろった守護聖たちの中から、鋼の守護聖に加えて、特に砂漠の星の担当ではないジュリアスが呼ばれる。その報告の内容を、実際の担当者であるルヴァに如何に伝えたものか、事務的な対処に慣れた研究員も思いあぐねたのだろう。
 ジュリアスの決断は、逡巡を心のうちに押え込む瞬間だけ遅れた。鋼の守護聖の目配せがカティスに向く。そしてジュリアスが報告書から身を返すのを、ルヴァ以外の全員が見つめた。
「…ルヴァ。そなたの星は、監視段階を終えた」
 金を纏う守護聖の、幼さを残しながらも秀麗な唇は、静けさを伴った言葉を紡ぎ出した。
「惑星間飛行までの文明の進展は、もはや適ったものと見なされる。そなたが昨日提出した報告書から判定が下りた。人の精神とのバランスも失われていない。…そなたの弟の功績だが」
 もう、監視の必要はない。ジュリアスの唇はそう言葉を紡ぐ。
 それはすなわち、ルヴァが故郷の星を見る義務を―――返して言えば権利を、失うことを意味した。今ですら、「一個人の臨終を、守護聖の立場を利用して見ている」との謗りを受けても仕方のないところなのだから。
 自らの言葉の酷薄をジュリアスも知っている。けれど守護聖としての任を、彼は全うしなくてはならない。筆頭の肩書きは責任と同時に重圧も負わせる。それを承知しているから、ルヴァはこの年下の同僚に逆らうようなことはしない。
 だがこの日だけは特別だった。
 ルヴァの視線がさまよう。だが水盤の面に焦点を結んだそれは、やがて確固とした意志を持ってジュリアスへと据え直された。
「最後まで、見届けます」
「ルヴァ」
「…最後まで。どうか」
 懇願するルヴァの表情を、八人の守護聖達はどこか痛ましそうに見つめた。研究員たちは静かに控え、口を挟もうとしない。視線は自ずと若き筆頭守護聖に集まる。わずかにため息めいたものを吐き出して、ジュリアスは軽くうなずいた。
「では、望み通りにすると良い」
 ルヴァは少しだけ笑い、ジュリアスに丁寧に頭を下げた。
 本当の望みは、ただ見届けることなどではない。手をこまねいて宇宙の法則などに従うことなどではない。
 枕辺に駆けつけて励ましたい。その痩せ枯れた手を取りたい。何より自分には、彼を治す知識がある。それをあの星に伝えたい。
 それは許されないことと知っているから、なおのこと。
 部屋はもどかしい想いで満たされる。無力を思い知りながら、まじろぎもせずに水面を見つめるルヴァの隣に、初めに立ったのはクラヴィスだった。
 すいと差し伸べられる手に驚く間も有らばこそ、黒衣の指先からサクリアが溢れ出す。
「クラヴィス!」
「…賢人の最後に、安らぎを」
 慌てるルヴァの鼻先から、サクリアは水盤のつなぐ空間を通って砂の星へ注がれる。その背後でジュリアスが身を乗り出したが、それより速くカティスが水盤に近づいた。
「では俺は、未来に続く豊かさを」
 水盤を、ひいてはルヴァを取り巻く足音は確実に増える。その度に、水盤はとりどりのサクリアで満たされ、力は星へと降り注がれていく。
「…最後に見る夢に、美しさを」
「後を継ぐ人々に、器用さを」
 強さを。優しさを。勇気を…。
 すれ違いざま、ルヴァの肩を、背を、頭を、優しく叩いていく手たち。さまざまな言葉と共に、ルヴァをもとりまくサクリアたち。最後に金の力までもが加わったことを、結局だれも疑問には思わない。
 未知の力で支えられた水面を、ルヴァの頬を伝った滴が揺らしていく。
 静かに、穏やかに、一人の学者の生が閉じられる。その光景に引かれるように、彼よりはるかに若い兄が、そっとその手を水面に触れた。
 唇が紡ぐのは砂の星の言葉。そして彼の弟の名前。
 地のサクリアは間違いなく砂の星に降り注いでいく。それはただ一人だけが受け取り―――そして、次の瞬間に、費えた。


「ありがとう、ございました」
 静かに頭を下げるルヴァの目にもはや涙はなかった。
 彼の手に抱えられた書類は、やがていつもどおり完璧な体裁を整えて女王の元に上がるだろう。外は夜明けの空気が漂い、昨夜の雨を霧に変えながら白み始めている。
 女王補佐官も顔を見せたが、守護聖達の職権乱用については何も言わなかった。ただ、地震に関して被害はなかったが、人心の収攬に勤めるようにとの女王の伝言を伝えただけだった。
 カティスは自分の馬にルヴァを乗せ、自分は歩いて、遠回りになる地の守護聖の館まで送った。数日の徹夜に加えて昨日のサクリアの暴走がたたり、彼は今は立っていられないほどの疲労に見舞われていた。
「…あのお。すみません、カティス」
「ん? 何が」
「馬を取ってしまいまして。あなたもお疲れでしょうに」
「どう考えてもお前ほどじゃないぞ」
 ルヴァは用意された馬車を使おうとしなかった。このおぼつかない足元さえなければ、カティスの申し出も辞退しただろう。
 理由を問われて、聖地を見たいとルヴァは言った。
 毎日見ながら暮らしているはずこの景色を、改めて見たいと。
 ぬかるんだ道のそこここに、何かの動物の足跡がある。緑は朝の湿気を放ち、空気は少しずつ澄んでいく。誂えたような美しさだと、カティスは目を細めながら思う。
「…結局、私は、ここが好きなんでしょうねえ」
 頭の上から降ってきた独り言めいた言葉に、カティスは顔を上げた。ルヴァの視線は風景をあちらこちらとさまよっているが、カティスの上には止まらなかった。
「ルヴァ?」
「偉そうなことを言っていましたけれどね。本当は、私はあそこに行きたかった」
 カティスが足を止めると、手綱を引かれた馬が不満気に鼻を鳴らした。ルヴァはそこでやっとカティスを見て、どこか弱々しい笑顔を浮かべた。
「でも、…ここにいて、ここから見送ることができたのは…良かったと、思います」
「…良かったと、思うのか?」
 言葉そのままに問い返されて、ルヴァの目がわずかに見開かれる。だが、やがてその答えは、力づよい頷きで返された。
「思います。…皆さんと見送れて、良かったと」
「…そうか」
 カティスはルヴァをまっすぐに見上げ、それから軽く馬の背を叩いて歩みを促した。沈黙に支配されそうになった空気から逃げたくて。
「あとは寝ていけ。ちゃんと送ってやるから」
「……はい」
 頷いて、ルヴァは馬のたてがみにもたれた。けれど背を向けた彼の目が、開かれたままであることをカティスは悟っている。
 そろそろ目覚め始めるだろう聖地。ルヴァがここにとどまり続けるための、静かな嘘がそこにあった。
「おやすみ」
 小さく言って、カティスはそれきり口を閉ざした。
 そして、少しだけ考える―――先ほど逝った学者は、彼の兄に看取られていたことを、知らぬままであっただろうか、と。

――― End 98/10/26




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