世界のかたち





 まだ新参の道士に過ぎなかった昔、一緒に玉虚宮の書庫を占領していた彼が言った言葉を、太公望はよく覚えている。
「世界のかたちを知りたいだけなんだよ」
 積み上げられた本の隙間から交わす会話の途中、普賢真人は表情そのままのおっとりとした声音でこう言った。まだ呂望と呼ばれていた少年は、言われた意味がわからずに瞬きを繰り返した。
 普賢が好んで読んでいる書の内容はほとんどが物理学。仙人界に上がって初めて字を知り、漸く素読が独りでできるようになったばかりの呂望には、それは未知の学問だった。興味を覚えて覗き込んだが、奇妙な数字と記号の羅列に頭痛を覚えるばかりで、すんなりと読み進んでいる普賢が殊に賢くおもえた。
 崑崙では同期と扱われている二人だが、普賢は仙人界に最近上がったというだけのことで、以前は西域で仏道修行をしていた人物だ。ひとかどの地位を得ていたとも聞いているが、それが「学問に一層の研鑚を積みたい」と崑崙に来て、遥かに年下の呂望と嫌な顔一つせず机を並べている。呂望はそんな彼に素直に感心し、追いつきたいと思っていたのだが、数学の初歩の手ほどきを受けている現状ではそれはまだ無理な話だった。
 だから、彼にしては珍しく、少々愚痴めいた言葉をこぼした。「そんな学問が楽しいのか?」と。
 それに対して返ってきたのがあの言葉だ。
「世界の、かたち?」
 鸚鵡返しに尋ねた呂望に、普賢は書を閉ざして向き合った。
「学問っていうのはみんな、僕たちを取り巻いてる世界と、自分の中にある世界を知る手段だから。その中で物理学は、自分を取り巻く世界を知るための、一番単純な手段の一つだと思うんだ」
「単純?」
 これは承服しかねて呂望は問い返した。
「知る対象に人間が含まれないからね」
 普賢は穏やかな表情を崩さず、呂望の手元にある算術の本を指でさした。
「数字って、変わらないでしょう? 一は誰が見ても一だし、一と一は誰が足しても二。数って、人間の感情とか思惑が挟まる余地がないから、かえって説得力があるでしょう」
「…うん」
 呂望は考え込みながら頷いた。彼にとって、まだ数学は身近なものではないが、数字の持つ説得力については多少なりと理解しかけている。
「物理学はね、数字で世界を表現するんだよ。だから、解き方や考え方のルールさえわかれば、だれが見てもほとんど同じ形になるでしょう? それにね、確かに数式とか論理構築とかは難しいかもしれないけど、それで導き出された結果はシンプルなことが多いんだよ。綺麗な形になるんだ。その公理とかがわかるまでが大変だけどね」
 まだ不得要領な顔をしている呂望が、腕組みして考え込んでいるようすが微笑ましくて、普賢は軽く笑い声をたてた。まだ関数の計算すら修めていないのに、普賢のレベルに追いつきたいと真剣に考えているのだから、たいしたものだと思う。
「まあ、偉そうに色々言ったけど。要は、僕がこういうことを知りたいっていうだけのことだからね」
 呂望の傍らに積みあがった本の中から、普賢は比較的新しい色合いの一冊を取り出した。呂望が元始天尊にせがんで手に入れた心理学の本。
「望ちゃんは、こういうことのほうに興味があるんでしょう?」
「うん」
 呂望は素直に頷いた。ぱらぱらと紙をめくりながら普賢は肩をすくめる。
「僕には、こっちのほうが難しいなあ」
「え?」
 卓上にひも解かれた巻き物の中には、普賢が貸し与えた仏典がある。呂望はそれを取り出し、まだ七割方読めない文字の列と普賢の顔を交互に見た。
「だって、普賢はこれがわかるんでしょう? 仏教は、人の心を知るための哲学みたいなものだって、元始天尊さまから聞いたよ」
「そうだねえ…」
 普賢はあいまいな微笑を浮かべた。
「字の読み方とか、意味はわかるけどね。でも、それだけじゃ、ほんとにわかったことにはならないから」
 暗記しているらしい仏典の一部分をさらさらと唱えてみせ、目を丸くしている呂望に笑いかける。
「もしもわかるとしたら、それは自分の心だけだね。それだけでもすごく大変だから…他の人の心は、わからないよ」
 わかりたいとも思わないし、との言葉を、普賢は口の中でだけつぶやいた。
 呂望の疑念は置き去りにされたまま、この日の学問の時間はまもなく打ち切りとなった。


「おお、普賢ではないか?」
「あれ、望ちゃん。久しぶり」
 魔家四将との戦いの直後。乾元山を訪れた太公望は、書斎と居間を兼ねた一室で、懐かしい顔を見つけた。何年ぶりになるのか、それでも以前と変わらぬ微笑を浮かべる旧友に、それは嬉しそうな表情になって歩み寄る。
 隣接した書庫から、本来挨拶をする予定だったこの洞の主が、ぶつぶつ文句を言っている声が聞こえる。どうやら目当ての書物が見つからないらしい。扉の隙間から、床に本が散乱しているのが見える。
「ナタクくんが運動して、壁ごと本棚を倒しちゃったんだって」
 普賢が代わりに説明する。いつものことなので頓着せず、太公望は太乙の椅子にちょこんと腰掛けた。
「見舞いがてらに来たのだが、もうだいぶ良いようだのう」
「うん、でも今留守だよ。うちの木ちゃんと一緒に、文殊のところに行ってるから」
「そうなのか?」
 文殊のところ、というよりナタクの長兄の金タクに会いに行っているのだろう。ナタクが兄たちに会うと必ず騒動が起こるといううわさを思い出して、太公望はちょっと苦笑した。
「でもまあ、ちょうどよかった。この次はおぬしの洞府に行こうと思っていたのだ」
「そうなの? 順序が逆じゃなくてよかった。今だれもいないからね」
 10年ぶりにそれじゃつまらないものね、と穏やかな声で普賢は言った。
「そんなになるかのう。…そう言えば、封神計画が始まってから、まるで会っていなかったか」
 太公望は目を細めて普賢の顔をみつめた。道友の表情は、下界の騒乱も計画の煩瑣も知らぬげにおだやかだった。話し掛けられると必ず手を止めて、顔を見返してくれるのも変わらない。手に抱えた小難しい物理学の本も。
「おぬしの方は、―――相変わらず、世界のかたちとやらを追求しておるようだのう」
「うん、相変わらず。…望ちゃんは大変みたいだね。ちゃんと休んでる?」
 そう首をかしげて尋ねたのは、先の戦いで太公望が負傷したことを聞いているからだ。ナタクもそうだが、黄天化、雷震子も大怪我を負って仙人界に帰ってきている。激化する戦いに、各師父たちも懸念を隠していない。逆に玉鼎などは、弟子が戻って来ないので気にかけているようだが。
「わしのことなら心配無用じゃ」
 太公望のこの台詞はやせ我慢であることが往々にしてある。普賢の微笑がたしなめるようなものに変化した。
「望ちゃん?」
「…うー、と」
 普賢の笑顔にはある種の力が有ると太公望は思う。最も長い時間を共に過ごした道友だということもあり、隠し事やごまかしはなかなかできない。言葉に詰まった太公望を、普賢はおっとりと気遣った。
「あまり無理しちゃだめだよ」
「心配を掛けてすまぬのう。でもまあ、怪我はほぼ完治しとるし。今は新しい国を作る、大切な時期だからのう」
「順調にいってるの?」
「それなり、じゃな。殷と妲己を倒すのだから、多少の苦労はしかたあるまい」
 仙道のいない人間界を作るためには、と言って、太公望は笑った。かつて修行時代、道士だった普賢にこの夢を語ったことがある。もちろん改めていわれずとも、普賢はそれを心得ていたが、微笑はまだわずかに懸念を含んでいた。
 太公望が居心地悪く座り直したとき、洞の主の声が戸口から近づいてきた。
「普賢ー、やっぱり生物に関したデータは、雲中子のところじゃないかな…あれれ、太公望、来てたの?」
 書を箱ごと抱えてきた太乙は、頭からほこりまみれだった。
「なんだ、ひどい格好じゃのう」
「だってナタクが壁を壊しちゃったんだよ。少しは整理したけど、瓦礫の下から掘り出さなくちゃいけないのがまだ残っててさ。前に本棚を倒されたことがあったから、今度はちゃんと止めといたのに」
「ふむ。まあ、回復したようで何よりじゃ」
「もうちょっと治さないでおいとけばよかったかなー」
 のんきそうに言いながら、太乙は普賢の手元に数冊の本を置いた。
「共同で研究でもしてるのか?」
「それがね、壊されたついでに片づけてたら、すごく大昔の記録が出てきてさ。わからないところがあったから、普賢に見てもらってるんだ」
「なんだ、自分で研究したことであろうに」
「いや、私の師兄のなんだ。…事故で亡くなってね、資料だけ私が引き継いだ」
 事故という言葉を紡いだとき、少しだけ太乙の目が細められた。太公望が眉をひそめる。普賢が視線で咎め、太乙は慌てて取り繕うように先を続けた。
「別に研究を引き継ぐ気はないんだけどね。宝貝に応用できる技術じゃないからさ」
「ふうん?」
 太公望は首をかしげて二人の顔を見た。科学者たちは、どう説明したものかと思案している様子だったが、太公望はひらひらと手を振ってそれを遮った。
「ま、物理なんぞの話はわしに話してくれなくてもいい。どの道わからんからのう」
「そりゃあね。そんなに何でもかんでもわかられちゃったら、私たちは立場がないよ」
 太乙は肩を竦めたが、どこかほっとしているようにも見える。常と違って、自分の研究のことを話したがらない彼に、太公望は少しだけ不審を覚えた。しかし、視線を転じた先の普賢も同じような表情でいるのが分かり、太公望は追求をあきらめた。それに、もし本気で尋ねて説明が始まったりしたら、今日の予定はとても終わらなくなってしまう。
 洞の主人がお茶の支度をしてくるのを待って、太公望は本題に入った。
「今度の周の決起集会についてなのだが…」
 彼の話は人間界のことに終始した。木タクの力もいずれ借りると言われて頷きながら、普賢は先ほどまで開いていた本をそっと閉じた。
 それは太公望が知らなくてもよいはずのことだった。


 しばしの歓談の後、太公望は乾元山を後にした。研究の成果が出たら見せてくれ、と彼は気軽に言ったが、言われたほうは少し複雑な気持ちだった。
 何せ、その資料というのが。
「―――千年前、だね、この記録。こんな昔によく作れたね、核爆弾なんて」
 あくまで穏やかな表情は変わらず、しかしどこか憮然とした口調で普賢がつぶやいた。
「別に爆弾として作ったわけじゃないんだよ。ただ核反応の連鎖を起こしたかっただけでさ。それが実験装置に不具合があったらしくて、作動させる前に暴走して」
 師兄はそれで死んじゃったんだから元も子もないねえ、と太乙は茶化すのに失敗した声でつぶやく。普賢は年月に風化しかけた資料から、燃料成分の概略を読み取るのにかろうじて成功した。
「多分、起爆装置が誤作動したんだろうけど…装置だけじゃなくて燃料もだめだよ。235が三割も入ってたら立派に爆弾だよ。それに、どうして人里の近くで実験したの? モヘンジョ・ダロは、今でも近くの住民には鬼門になってるんだよ」
「だから実験する前に壊れたんだってば。海に持っていこうとして、途中で破損したんだ…と思う」
「わざわざ山脈を越えてまで?」
「聞かないでってば。とにかく、実験の計画とか手順とかがたいして残ってなくてさ」
 埋まってるだけかもしれないけど、と太乙はうんざりしたような視線を書庫に向けた。
「でもそれで、文明をひとつふっ飛ばしたんだから。わかる範囲でも、ちゃんと整理して残しておかないとね」
 そう諭されて、太乙も少し表情を改めた。残った断片的な研究記録は、今の二人から見ると初歩の初歩も良いところだが、その結果は仙人界が地上に及ぼした害悪としては最大級の部類に入る。これにくらべれば雷公鞭など、まだ後遺症が残らないだけかわいらしいと言えよう。
 しばらく二人で額を突き合わせ、残留放射線量の再計算に没頭する。だが普賢はやがてふと手を止めた。高熱でガラス化した地層と瓦礫の標本が箱の隅に残っており、ぼろぼろになった資料の中で、奇妙にひっそりと静まり返って見える。
「ねえ。…思ったんだけど。これって、誰にでもできる技術だよね?」
「へ?」
 唐突に話し始めた普賢に、太乙は集中を切られて顔を上げた。普賢は書面に視線を落としたまま、何気なさそうに言葉を継いだ。
「望ちゃんは、仙道のいない安全な人間界を作るって言ってるけど。人間は自然の持ってる力から、宝貝だって及ばないような力を得ることができるよね。この技術を実現するのには、別に仙人骨は必要ないもの」
「んー、まあ、それはそうだろうけど…」
 太乙は瞬きして首をかしげた。
「でも人間が自然のエネルギーを得るなんて、まだまだ先の話でしょ。火薬だってまだないんだよ? ましてや核なんて、今の文明の進展度じゃ、何千年かかるかわからないよ」
「そうだね。でも何千年か先には、絶対に手に入れるよね」
 その口調に含まれるかげりを察して、太乙は眉をひそめた。
「普賢?」
「自然を破壊して焼き尽くしてしまう力でも。人間を滅ぼすことが可能な力でも―――きっと手に入れるよね」
 一瞬言葉を切って、普賢はわずかに目を伏せた。
「たとえ望ちゃんののぞみどおり、仙人が誰一人、人間界からいなくなっても」
「……」
「仙人がいてもいなくても、同じことになっちゃうんじゃないのかな」
 ―――この戦いを繰り返す。
 人間のすべてが、仙道の力に匹敵するものを手に入れて。
 呟きながらも、彼の表情は変わらず穏やかで。だから尚のこと、言葉は鋭く響いた。
「でも、普賢」
 手に抱えた巻き物がにわかに重みを増したような気がして、太乙は慌てて言葉を遮った。
「心配なのはわかるけどさ。そんなの、どうなるかわからないじゃないか」
「そう、思う?」
「うん、だって、人間だってばかじゃないよ。破壊するほうに使わないかも知れないし。私たちみたいに、使い方がわかっても、実用に回さないかもしれないし」
「…そうだね」
 ぽつりとつぶやいて、普賢は先ほど太公望の去った扉のほうへ視線を投げた。それは賛同ではなく、言葉を遮るための相槌である。彼の口元から笑みが消えるさまを、実に久しぶりに太乙は見ることになった。
 やがて小さなため息と共に言葉が漏れる。
「…ちょっとね、不思議だよ。あんなに人間界で苦労してるのにね」
 数式にまとめることも、公理を導くことも不可能な世界の中にいて。
 どうしてまだ信じられる?
 声にならない言葉が、今は下界へと向かっているだろう道友の後を追っていく。普賢が何を懸念しているのか、ようやく太乙は思い当たった。人間界のことではない。―――太公望の今の辛苦が、いつか無に帰してしまうことを恐れている。
 それでもやがて微笑は戻ってくる。軽く肩を竦めて、普賢はまた本に視線を向けた。
「僕にも見えたら面白いのにね」
「え?」
「望ちゃんの目に映る世界は、どんなかたちをしているんだろうね…?」
 声は静かに、静かに響く。太乙に返答を許さぬ表情のまま、普賢はそれきり口を開かず、手元の本に意識を引き戻した。
 この件での生物に関する資料をさがすのはやめようと、その顔を見ながら太乙は決心した。





とあるサイトさんの10000HITお祝いに差し上げた小説です。
残念ながら閉鎖されてしまいましたので、自分で再掲。
うちのページからはリンクさせていただいておりませんでしたが、
とても有名なサイトさんでしたので、この話を読まれた方いらっしゃるかも ^_^;)



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