千年の未来




 彼と語りたいのは過去ではなかった。


 黄河の治水工事に出向いた武成王が、ようやく朝歌に帰って来た日。
 太師府に報告に出向いてきた彼は、片手に報告書を、もう片方の手に酒瓶を抱えていた。私が報告書に目を通し終えるのを待って、飛虎は私を執務室から引っ張り出した。
「まだ執務時間だ」
「まあま、固いこというなって」
 彼が出かけてからずっと私が執務室に詰めきりだと聞いて、身体を案じていたのだろう。彼は私を引きずって、いつのまにか酒宴の用意の整えられた仮眠室へと移動した。滋養に良い南国の果物や、黄河の名物の魚の薫製やらがつまみに並ぶなか、挨拶に次々やってくる百官を軽く往なして、彼は私にばかり酒を勧めた。
 そもそも飛虎が工事へと出向いたのは、度重なる大事故の始末をし、改めて作業の段取りをつけるためだった。黄河は一度工事を終えても、二年もすればまた暴れ出す。作業者は流域近隣の民間人が多い。河の猛威におびえ、工事の効果を疑い、ともすればあきらめて土地を投げ出す。それは監督者も、設計者も同じことで―――ひいては命じる立場にある私も、ときに倦む思いにとらわれることがあった。
 今回は最初の事故の後、身の入らぬ作業が連鎖的に事故を呼び、計画は頓挫する寸前だった。私と紂王陛下が流域の土地の放棄を真剣に検討し始めたとき、飛虎がみずから出向くと言い出したのだ。生まれて一年にもならぬ長子と、次の子を身篭っている賈氏を置いて、飛虎は一つの季節をまるまる内陸で過ごした。彼の指揮する現場は意気があがり、どうにか増水期の前に工事を終えることができた。
「ご苦労だったな」
「なんの、おめえに比べりゃ楽なもんだ」
 いつのまにか張奎と四大金剛まで加わった酒席で、私は飛虎と向かい合わせて乾杯を重ねた。苦労を感じさせない闊達な声に、私はやっと待っていた間の疲れが取れ始めた気がした。
「…しかし、この効果もいつまで持つものかな」
「あん? 何のことだ?」
 目尻を少しだけ赤く染めた飛虎は、私に酒を勧めながら聞き返した。
「今年は春の増水が少ないようだが、来年もまたこうとは限るまい」
 黄河の流域まで殷の版図が及びはや数百年。幾度となく戦ってきたが、あの河のじゃじゃ馬ぶりは変わるところがない。
「ひとたび氾濫すれば、土地は荒れ、人心もすさむ…同じことのくりかえしだ」
 愚痴に類する言葉だったことは否定しない。飛虎は目を細めて私を見たが、ややあって大笑して杯を仰いだ。
「何言ってんだよ、らしくねーなあ」
 いつもの勢いで、彼は私の肩をたたいた。杯を取り落としそうになってにらむと、からからと磊落な笑いが返ってくる。
「河が氾濫しなけりゃ、土地を耕して、みんなが幸せな生活をするんだ。これだって、同じことのくりかえしじゃねえか」
「…飛虎」
 私は随分と間の抜けた顔をしていたに違いない。飛虎はにやりと笑い、私の杯に酒を継ぎ足した。
「壊れたらまた直しゃいい。どんな人間もずっとそうやってきたんだろ。それこそ、百年だって千年だって」
 軍人がこんなことを言うのもおかしいけどな、と飛虎は頭をかいた。それから遠くを見る目つきになり、自分が帰って来たばかりの黄家の方へ視線を転じる。
「…さっき、家に戻ったらな。天録の奴が、歩いてた」
「ほう?」
「俺が出る前は、まだつかまり立ちしかできなかったんだがなあ」
 わずかに目を細めて彼は言った。
 彼のそんな仕種はいつも、忘れていることを思い出させる。彼が普通の人間として生きていて、いつかは必ず私の前からいなくなるということを。飛虎もおそらく、私を前にするとき、いつか必ずやってくる死を思い起こさずにはいられまい。
 それは常ならば、ある種の寂寥とともに身のうちを浸す事実だ。だが何故かその時感じたのは寂しさばかりではなかった。目の前に浮かぶのは、豊かに流れる黄河と、広がる農地と、幸せに働く民衆たち。堅牢な堤防の上に立ってそれを眺める飛虎と彼の息子。
 それはまだ、ただの空想でしかないのだが。
「…天録が成長するまでに、治水工事をもっと進めておかねばな」
 私が言うと、飛虎は視線を戻してにやりと笑った。
「おう、これが親父たちの仕事だって見せてやるぜ」
 それこそ、百年でも、千年でも続く仕事を。誰かが受け継ぎ、誇りとして繰り返す仕事の礎を、自分たちが作る。
 また乾杯して、私たちは笑った。酒は殊のほか美味く感じられた。


 破壊された国の、破壊された礎。それをとどめる力が足りぬことを悟る。
 最後の瞬間の自由を携え、魂を封じる塔へと飛ぶ。
 それも良い。礎は築き直される。それに足る人物がいる。
 この世での私の務めはもう終わったのだ。
 美味い酒があるかどうか、わからないが―――
 飛虎よ。
 今こそ、千年の未来を語ろう。

―――End 1999/08/18
かの孤独の終焉を祈って





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