行く道の遠く






「武王が城にいらっしゃいません」
 そう太公望の私室に報告が届いたのは、丸みを帯びた月が高く昇るころだった。殷打倒の決起集会を翌日に控えた日。草案を暗記せよときつく言い渡してあったにも関わらず、木簡は机の上に投げ出されたまま、部屋はもぬけの空だという。好戦の気運に沸く城下町はまだ灯を落としていない。繁華街にでも繰り出したかと太公望は呆れた。
「供も連れていないとは、手間をかけさせてくれる」
「とにかく急いで探すっスよ、御主人」
 従う四不象は心配顔でせかす。
「わかっておるわ。それにしても、こういう重要な日に勝手をするような奴だとは思わんかったが…」
 ぶつぶつ言いながら扉を開けたとき、廊下の向こうから周公旦が声をかけてきた。こんな時刻でも服装を崩していない彼は、やはり武王不在の知らせを受けてきたのだった。しかし不機嫌な顔つきの太公望に対し、彼は珍しく首を横に振ってみせた。
「―――おそらく街には行っていないと思いますよ」
「何?」
「小兄様の馬もいなくなっているそうです。城下に行くならば必要ありませんからね」
 周公旦は落ち着いた顔でそう告げる。太公望は眉を寄せた。この宰相は如何なる時でも冷静だが、兄の脱走となれば皮肉の一つや二つは洩らすのが普通である。
「おぬし、もしや行き先を知っておるのではないか?」
「はっきりとは知りませんが。―――まあ、見当はついています」
 そう呟いて、周公旦は今来た方角を振り返った。ためらいを含んだその視線の先に何があるか、一瞬おいて太公望にもわかった。
 城の裏手から続く丘が、きざはしと広い庭と城壁の向こうに見える。その小径を抜けて半時ほどの、今はおそらく静謐に支配されているだろう場所。
 姫家の墓陵。
 そこにはつい先日、姫昌が葬られた。また墓碑の下の棺は空であるが、伯邑孝の眠る場もその隣に定められている。
「あちらの方へ向かうところを見た者がおりました」
「…なるほど、のう」
 何度か頷いて、太公望は周公旦の言葉が少しまわりくどくなっている理由を悟った。死者と―――否、父や長兄と語らう次兄の邪魔をするのが憚られるのだろう。
 だが今は既に戦時。魔家四将の例を引くまでもなく、いつどこから不逞の輩が現れぬとも限らない。太公望はため息と一緒に顔を上げた。
「…しょうがない。スープー、見回りに行くぞ。…こっそりな」
「わかったっスよ、御主人」
 至極真面目に四不象は了解した。その背に上りながら、太公望は周公旦を振り返る。
「一応、街の方にも人をやっておくと良い。もし万が一、裏からこっそりなどという事態であったらことだからのう」
「そのあたりは抜かりありませんよ」
 しれっと答えた名宰相に苦笑を残し、太公望はその場を後にした。
「…よろしく頼みます」
 周公旦はわずかにつぶやき、白い霊獣の姿が闇に溶けるまでその後ろ姿を見送った。


 手に抱えた酒瓶は一つ。杯は小振りのものを三つ。立ち木に繋がれた馬が、不満そうに体を揺らすのをなだめてから、姫発は隣り合わせた二つの墓碑の前に座り込んだ。灯は持ってこなかったが、月あかりが手元を照らしてくれる。
 周囲は潅木や広葉樹がまばらに生えているが見通しは良い。片方の墓の盛り土は最近掘り返されたばかりだが、そろそろ枯れ始めた草が吹き寄せて、他と区別がつかなくなっている。大諸候とその長子が眠っているとは、そこに置かれた質素な切り石だけではわからないだろう。その前にそれぞれ杯を置き、片手に酒瓶を持つ。
「伯邑孝あんちゃんは、あんまり酒は飲まなかったけど」
 素面であれば寒気を覚えるであろう夜気を、姫発の声が震わせた。
「城の付き合いのときは飲んでたし。ま、たまには良いよな」
 注いで回った濁酒を一人で掲げてあおる。残る二つの杯に満たされた酒が減らないことは、はじめからわかっていたことだから、目をつぶって。
 父親はここに眠っている。兄は―――体はないし、魂魄も封神台とやらに飛んでしまったが、きっと彼もここにいるだろうと思う。姫昌が伯邑孝のために選んだ場所だから。
 思えば、三人で酒を飲んだことなどなかった。姫昌が幽閉の憂き身となったころは自分はまだ幼く、父が戻って来たときには兄はもういなかったから。惜しいことをした、と思いながら、姫発はまた杯を重ねた。
「…二人とも、とっとと行っちまいやがって」
 片膝を抱えながら、拗ねた子供のような声で姫発はつぶやいた。
 理不尽を感じる。かつて朝歌へと発った伯邑孝は、「お前がいれば大丈夫だ」と言い残した。姫昌もまた、姫発に新しい国作りをまかせると言った。確かにそれは、自分がやるべきことだと知っている。知っていて―――それでも、文句の一つくらいは言いたい。
「なんかさ…親父もあんちゃんも、あれだけ頑張って西伯侯やってたのにさ。俺みたいにちゃらんぽらんばっかしてた奴が、ただ順番だからって、跡継ぐことになるなんてな…」
 兄は身内の贔屓目を抜きにしても、次期西伯侯としてふさわしい男だったと思う。だから姫発は、自分が父の跡を継ぐことはないとずっと思ってきた。補佐役と言う柄でもないから、西岐の一地方の小領主となるか、どこかの関の兵官となるか、いずれにしても直接の政治とは関わらぬ将来になるだろうと。
 それが今や、革命の盟主として王を名乗っている。
「それもこれも、妲己と紂王のせいだってのはよーくわかってっけどさっ! さっさと行っちまった親父とあんちゃんにも、ちっとは責任があると思うぜっ!」
 大声があたりに吸い込まれ、姫発は一瞬口をつぐんだ。
(…お前には器があるよ、発)
 旅立つ前、引き止めようと食い下がる姫発に、兄が告げた言葉がよみがえってくる。
(お前がいるから安心して行ける)
 嘘でも励ましでもない言葉。本心から出たと察せられるそれを、姫発は縁起でもないと怒って否定した。後事を託すということは、帰ってこられない覚悟だと言うことだ。伯邑孝は苦笑して、無事を繰り返して約束したが、言葉を撤回したりはしなかった。
 そして帰って来なかった彼。けれどその言葉が今の自分を支える一助となっていると自覚して、姫発はぶんぶんと頭を振った。取って置きの酒だったが、酔えない。姫発は何度か杯を空にし、それからそっとため息をついた。
 二人とも尊敬していた。父も兄も、彼の誇りだった。その跡を継ぐことは、おそらく自分以外の誰も果たせない義務だということはわかっている。二人が跡を託したのは、他の誰でもない、姫発という一人きりの自分だから。
 けれど、自分は決して彼らのようになれないことも知っている。自分には積み重ねた努力も、おそらくは才覚もない。なのに継ぐべき責は重い。とてつもなく。
 必要なのは旗印としての王の存在。だが、旗は最後まで、揺らいだり倒れたり折れたりしてはならないものだ。
 それができるのかと。また自信があるのかと問われたら、答えはきっぱりと否である。情けないことに。
「…ただなあ」
 姫発は杯を仰ぐ手を止めた。息をついて酒気をわずかに払い、空を仰いで声を強める。
「おい、盗み聞きしてんじゃねーぞ!」
「わわっ」
 慌てたような声は四不象のものだ。頭を巡らせて姫発がにっと笑う。彼の背後に潜んだつもりだった二人は、やがてがさがさと音を立てながら、決まり悪げに姿を現した。
「ばれておったとはのう」
「ったりめーだろ。ここ音が響くから…」
 あぐらをかいたまま振り返った姫発は、一瞬目を丸くしてから吹き出した。地面に伏せていたらしい太公望と四不象は、頭から枯れ草まみれになっていた。
「何やってんだよ、軍師さま」
 笑いながら立ち上がって、姫発は太公望の頭巾についた葉を取ってやる。太公望も同じように四不象の背を払ってやりながら、少しバツの悪そうな顔で姫発を見た。
「おぬしが勝手に抜け出したりするからじゃ」
「わりーな。多分、旦にはわかると思ったからさ。お前ら、それでここまで迎えに来てくれたんだろ?」
 悪びれずに答えているうちに、姫発はいちいち葉をつまむのが面倒になり、乱雑に太公望の頭巾を払った。
「痛い! もっと丁寧にやらんか」
「なんだよ、取ってやってんじゃん」
 その声は笑っているが、太公望から姫発の顔は陰っていて見えない。いつのまにか止まってしまった太公望の手を透かして、四不象が不安そうに二人の顔を見上げている。いたずらっぽい動作で肩をすくめ、仕上げに軽く髪を払うと、姫発は太公望から手を離した。月の光にどこか気づかわしげな太公望の表情が映され、少しからかうつもりで次の言葉を口に乗せる。
「何、逃げたとでも思って追いかけてきたのかよ?」
「…?」
「俺が怖じ気づいて、明日の集会を放り出したとかさ」
 太公望は一瞬ぽかんとした。が、姫発の言葉を理解した瞬間、眉を逆立てて怒り出した。
「ダアホ! 誰がそんな心配をしたりするか!」
「え、違うのか?」
「ボケっ! おぬしがそんな程度の人物だと思っておったら、最初から王を名乗らせたりはせんかったわ! いくら姫昌の子でもっ!」
 それはそれは真剣な顔で叱られ、姫発はまばたきして幼い顔立ちの軍師を見つめた。実はめったに心底から怒ることのない太公望が、今はこぶしを握り締め、本気で姫発につめよっている。
「大体なんじゃ、さっきから聞いておればぐちぐちと泣き言ばかり言いおって。姫昌と兄が墓の下で嘆くぞ」
「あーっ、お前、やっぱり聞いてたな!?」
「うるさい! 聞こえてしまったんじゃ」
 それでも顔を赤くしているあたり、多少罪悪感めいたものを感じているらしい。姫発はそう見て取って、せいぜい仏頂面を作って太公望を見下ろした。
 が、それも長くはもたない。姫発は元々、本気の思いやりから来る叱咤や忠言を無視できる質ではない。尚も言い募ろうとする太公望に破顔すると、両手を軽く挙げて降参の姿勢をとった。
「あのな。俺は別に、愚痴るために来たわけじゃねーよ。…愚痴になっちまったけどさ」
 姫発は酒瓶を指さした。
「一度さ、三人で飲んでみたかったんだよな。そんだけ」
「……」
 詰め寄る手を止めて太公望は絶句した。姫発は盃の前まで戻り、酒瓶を持ち上げて軽く振った。空に近い水音が太公望にも聞こえる。姫発の頬が軽く笑みの線を描いた。
「―――もうちょい、見逃せよな」
 振り返らずにそう告げ、酒瓶を逆さにして酒を注ぐと、姫発は父と兄の墓に向かって軽く盃をかかげた。そのまま瞑目して軽くこうべを垂れる。
 祈りと誓いの姿勢。
 その姿がらしくなく映って、太公望は何度か目を瞬いた。四不象がまた不安そうに主を見上げる。無論これは正式な祭祀などではないが、立ち会うのに気後れを感じたのだ。
 それに構った様子もなく、二人の前で、姫発は立ったまま最後の盃を仰いだ。それから父の盃の酒を父の墓へ散らし、兄へも同様に酒を献じる。枯れ草に滴の触れるかすかな音がして、姫発は何にともなく頷いた。
 そのまま振り向いた顔に屈託はない。
「わりーな、待たせて。帰るわ」
「…姫発」
 帰り支度とばかり酒瓶に栓をはめ、盃の台をくるくると縄で括り始めた様子に、常になく太公望は慌てた。
「おぬし、もうよいのか」
「なんだよ、愚痴ばっかでなさけねーようなこと言ってたくせに」
 姫発はむくれた顔をしながら馬に向かう。だが太公望は、自分が親子の語らいをはばんでしまったという思いを強くしていた。
 封神計画の始め、殷王家の墓を見たとき、自分は計画の完遂を家族に誓った。それは確かに自身の望んだことであり、あのころには迷いもまたなかった。けれど姫発はいささか事情が違う。父と兄の無念は確かにあり、また殷を打倒することも、彼自身が納得していることであり―――しかし、王を名乗って責任を負うことは、決して望んでいたことではなかったはずだ。
 日ごろは闊達に、それこそマイペースにことを運んでいる青年だ。裏表ない性格からして、それは無理や芝居の結果ではない。だがきっと、太公望や周公旦に明かせないことは確かにあるに違いない。父や兄にだけ見せられるような顔もまた。
 かつて尊敬すべき父と兄を持っていた太公望には、それが痛いほど察せられる。
 馬の轡をとらえて戻ってきた姫発は、かえって立ち去りがたい様子の太公望を見て、しかし磊落な笑いを見せた。
「なに落ち込んでんだよ。らしくねえぞ」
「べ、別に、落ち込んでなど…」
「へえ?」
 姫発は揶揄するでもなく、まじまじと太公望の顔を覗き込んだ。
「よけーなこと考えてるような顔だったぜ?」
「そんなことはない。おぬしが仕事を増やすからじゃ」
「へいへい。だから、さっさと帰るってば」
 姫発は荷物を馬の鞍にくくりつけ、太公望にも四不象に乗るよう促した。墓を振り返るそぶりもない。淡々と過去を置いて去る、そんな風に太公望には見えた。
「御主人、どうするッスか?」
 逆に名残押しそうな主人の様子を見て取って四不象が尋ねる。姫発は既に騎乗していたが、何なら待つぞ、と声がかかった。だが太公望は首を横に振り、視線だけを墓碑に投げて四不象に乗った。
 もとより自分も、昔を振り返るために来たわけではない。新たな王を追い、明日に備えるために来たのだから。
 姫発が捧げた酒もすぐ夜露に紛れる。
 からり、と空の盃のふれあう音だけがそこに残った。


 裏門が見えてきたところで太公望は地に降りた。四不象は王の帰還を周公旦に告げるよう命じられ、背を空にして真っ直ぐに城を目指していく。残った太公望のゆっくりとした足取りをいぶかしみ、姫発もまた馬から下りて彼に並んだ。
「何か話したいことでもあんのか?」
 墓からここまでの道のり、太公望は常と変わった様子を見せなかった。渡した草案を姫発に暗唱させ、まるで出来ないので呆れていたくらいだ。だが今の彼は、どこか消沈した面持ちをしている。
「…姫発」
 太公望はためらいがちに口を開いた。が、常の彼らしくなく、後の言葉が続かない。
「? なんだよ」
「…いや」
 また黙り込んでしまった太公望に焦れたように、姫発は足を止め、体をかがめて視線を無理に合わせた。
「何なんだよお前、さっきから気持ちわりいな。いつものあのうるさい口はどこ行ったんだよ」
「なんだと? うるさくさせてるのはおぬしであろうが」
「だから、そうやってごまかすなっての」
 そう怒ってみせる姫発の目は率直で真剣だ。親代わりとまでされた軍師に対するものではなく、親しい仲間に対する表情で太公望に詰め寄る。
「俺に心配事だの不満だのがあるならとっとと言え。全部直すのはどうしたって無理だけどな、そうやって言いかけてやめられてたらたまんねーから」
「直すのが無理と最初から言われてものう…」
 冗談めかしてため息をついておいてから、太公望はやっと姫発をまっすぐに見返した。
「あのな。―――おぬしのほうこそ、わしに何か言いたいことがあるのではないか?」
「へ?」
「さっき、姫昌や兄には言っておったではないか」
 問われた姫発は何か目を瞬いた。頭一つ分は小さい太公望の顔を見下ろして、少し考えるそぶりを見せる。
「―――逆なんだけどなあ」
 やがてぽつり、と姫発の口から言葉がこぼれた。
「俺は、お前に言いたいことは全部言ってるよ。これは保証付き。旦もそう思ってるだろーから聞いてみ」
「だが…」
「だからさ、逆なんだって」
 尚も気遣わしげな太公望に、姫発は軽く笑ってみせた。
「俺は、聞いてみたかったんだ」
 姫発は指で墓陵の方向を示した。
「親父と、あんちゃんにさ。二人とも、励ましたり任せたりばっかで、あんまり俺を怒ったりしなかったけど。言いたいことは、本当はもっとたくさんあったんだろうから」
 今のお前みたいにさ、と姫発は冗談めかして言った。
 不意に太公望は、姫発が父や兄のことを初めて口にしたことに思い当たった。特に兄については、姫昌の存命の頃から今まで聞いたことがなかったのだ。仲の良い兄弟だったことは、周公旦や雷震子などから聞かされている。だがあたりまえの人間でありながら封神されるほどの男を兄に持って、しかも尊敬の念を持っていたのであれば。
「…俺でいいのか、とか思ってもしょーがねーだろ?」
 太公望の心を見透かしたように姫発は告げる。だが言葉に反してその目は澄んでいる。月の闇を足元に落としながら、表情はどこか吹っ切れたように明るい。
「でもさ、まあ、覚悟は決めたわ」
「…そうなのか?」
「なーに言ってんだよ。お前がとどめさしたんだろ」
 物騒なことを言いながら、姫発は太公望の頭を小突いた。
「程度が足りなきゃ王にしなかったってきっぱり言っただろ?」
「そ…それはもちろん、その通りじゃが」
「それに俺も、まあいろいろ考えたわけだ」
 胸を張るでもなく淡々と、姫発は彼なりの決意を口にのぼせる。
「だってさ、殷は確かに憎たらしいし、戦争も…まあやりたかないけど、ここまで来たらやらなきゃなんないだろ。で、こうなってさ、もし親父やあんちゃんの跡継がなかったら、俺に何ができるかっつったら―――」
 姫発は手綱を持っていないほうの、空の手を軽く上げた。
「…わかんねーだろ?」
 太公望は言葉に詰まった。姫発は重ねて笑う。
「親父がつかまったときも、あんちゃんが殺された時も、俺は何にもできなくてさ。あんちゃんが朝歌に行った後、少しだけ政務をやってみたけど、下地がないもんだからわけわかんなくってさ。最後は旦に押し付けたし。でもまあ今は、俺にもできることがあるわけだから」
 やるだけはやるよ。
 そう告げる表情は迷いなく、視線は変わらずに。
 それは悲壮な決意とか、改革への情熱などというものとは少し異なっている。だがこの男を選んだ自分はおそらく間違っていないと、太公望はその時改めて確信した。
 少しだけ目の光をゆるめた太公望に、姫発は子供のようににっと笑みを浮かべてみせる。そして突然、太公望の頭を脇に抱え込んだ。じたばたともがく軍師をからかう笑顔。
「大体な、お前が先に「行くぞ」っつったんだろ。ここまで来て迷ってんなよ」
「ダアホ、迷っとりゃせんわ。離せこらっ」
「そおかあ?」
 手綱を放り出して、年少の弟たちにするように、姫発は頭巾ごと太公望の髪をかき回した。
「姫発、離さんか」
「―――な、太公望?」
 頭を押さえつけて、顔をこちらに向けられないようにしながら、姫発は唐突に手を止めた。
「親父とあんちゃんが行ってたとき、朝歌ってすっげえ遠いと思ってたんだけどさ」
「姫発?」
 声が少し真剣になったのを感じて、太公望は暴れるのをやめた。
「今は、違う。お前らと一緒なら、遠くねーよ。―――多分な」
 太公望の頭を抱えたまま、姫発はいつもの彼の声でそう言った。だが彼が多いに照れているだろうことは容易に察せられて、頭をぐしゃぐしゃと小突かれながらも太公望は苦笑した。
 いつのまにか、門前に周公旦が姿を見せている。姫発は空いた手を大きく振り、それから慌てて馬の手綱を持ち直した。何をしているのかと周公旦が呆れているのがわかって、二人で顔を見合わせて笑う。
「もうずいぶん遅くなっちまったな。とっとと風呂入って寝ちまおーぜ」
「何を言っておる。帰ったら草案の暗記じゃ。今日は徹夜じゃぞ」
「げー、そんなんありかよ。ここまで来たら大事なのはリラックスだろ」
「お前はいつも気を抜き過ぎじゃ」
 呆れたような声に言われると、姫発はまた肩を竦めた。
「へいへい、まー、一応やるけど」
「一応ではない!」
 はたこうと振り上げられた太公望の手をよけながら姫発は笑う。先ほどのしおらしさは何処に行ったのか、と呆れながらも、太公望は少しだけ安心した。いつもだらしなくてトラブルの元になってばかりいる王。けれどきっと、こんな風にマイペースの彼が一番良い。
 周公旦が太公望をねぎらいつつ、兄にしっかりハリセンを飛ばすのを見ながら、太公望は少しだけ足を止めた。
「…甘いかのう、姫昌?」
 来し方を振り返って、心の中で問う。あの老賢人が、少し離れたところから、同じように目を細めて息子を見つめている姿が目に浮かんだ。
 ―――遠くはない。
 その言葉が、彼の行く道を、ほんの少しだけ楽にしてくれたかもしれない。そう太公望は思った。


―――End 98/11/28




姫発がんばれー、ということで書きました。
にしてもわからないのは西岐のお墓の形態。
ついでに言うと当時の西岐に飲酒の習慣はほとんどないはずだ…けどいいよね…。



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