ひそむ思い





 夜の散歩と称して誘われ、その時なぜ断らなかったのか、邑姜は少し後悔しながら姫発のあとについて歩いている。
 人気のうせた暗い回廊。お定まりのように彼女の頭からマントをかぶせ、当たり前のように彼女の手を引いていく姫発は、牧野の戦いで受けた傷の後遺症から抜け出せていないこともあり、かなりやつれた様子だった。休ませなくてはならないと承知していても、今日突然空いてしまった城の一角を思うとそうも言えない。姫発と周を長い間支えていた軍師が、突然現れて突然消えた。その寂しさを埋め合わせるように、いたずらのかたちを取りながら姫発が甘えているのを、邑姜は悟っていた。
 同時に、彼女を甘やかそうとしていることも、少々悔しいながらもわかっている。あれは失敗だったと思う。太公望からの置き手紙を見つけて、瞬時呆然としてしまった、その顔を姫発に見られてしまったことは。
「たまにはいいだろ」
 言い張って頑として譲らない彼に根負けする自分を、理性が呆れながらたしなめ、感情はといえば―――どこかふわふわと受け入れていた。
 妥協案として彼にも厚着をさせ、薬湯をきっちりと飲ませ、彼女自身の手で熱を診て―――喜ばせてしまっただけのような気もするが―――ようやく部屋を抜け出した。今日ばかりは周公旦も黙認のことだというのに、足音を忍ばせてしまうのは、彼の日ごろの行いからきた習性と言えようか。
 歩きなれた城。けれど夜の表情はがらりと変わる。
 回廊から階段を上がり、南に都を望むことのできる露台へたどりつく。真円に近い月は既に大きく傾き、星の瞬きに夜空の彩りを譲っている。そして地上でも、復興著しい街に、ぽつりぽつりと星のように灯かりがともっていた。
 仕事に忙殺されて外出が許されない時でも、姫発は日に一度はここから都を見渡している。近くで見なければ民の生活はわからないと言って、隙あらば抜け出そうとするのだが、大概は途中で捕まってここに戻って来ることになる。ぼやきながらも、街路が改めて整備されていく様を瞭然と見渡せることは楽しんでいて、子供のような表情を付き従う邑姜に見せた。
 今はもちろん街並みは闇に沈んでいる。姫発は邑姜からマントを半分だけ取り返し、自分の肩にかけた。二人の身長差のために、姫発の肩の高さにかかったマントは、邑姜を頭からくるんでしまう。邑姜としてはこの体勢を遠慮したかったのだが、夜気の冷たさと武王の体調を思うと逃げ出せなかった。
 …正直なところ、この温かさから離れがたくもあって。
 並んで街の灯かりを見晴るかす。その短い沈黙を先に破ったのは姫発だった。
「―――あのさ、邑姜」
「はい?」
 考えながら言葉を紡ぐ姫発の視線は邑姜を捕らえようとしない。彼にしては珍しいことだった。
「お前、このままここにいて良いのか?」
「…は?」
「誰か会いてえ相手とか、いるんじゃねえの?」
 問われて邑姜は目を瞬いた。言ってしまって吹っ切れたのか、姫発は真剣な声を彼女に向ける。
「どっか行きてえとか、帰りてえとかさ。もしあるんならちゃんと言えよ?」
 一気に言うと、姫発は返答を待つために口を閉ざした。
 嘘やごまかしを見抜く目を彼は持っている。自分の中に明確な答えがあること、彼を偽らずにすむことを知っていても、邑姜の鼓動は乱れる。
 だからと言って、それを表に出すほど、生易しい性格はしていないつもりだが。
「別に、何もありません」
 そっけない響きの言葉に、姫発は食い下がる。
「ほんとか? なんか我慢してたりしねえ?」
「本当です。お忘れですか、武王。私は、あなたが最初要らないっておっしゃったのに、ここに居座ったんですよ?」
「…そういやそんなこと言ったっけか」
 バツの悪そうな声で頭を掻き、姫発はもう一度目をそらした。
 油断できるくらい過去の話。王都解放からまだ一月にもみたぬ頃、仕事の量にうんざりして、つい口を滑らせた一言だ。言ってすぐ後悔して平謝りしたのだが。
「頼むから忘れてくれ。俺は、お前がいてくれて、助かってる」
 真剣に言われて、邑姜はまた目を瞬いた。今日は色々と驚かされる日だと思いながらも、つい普段の憎まれ口を返してしまう。
「そうですか? いつもは説教するなとか、休ませろとかおっしゃるのに」
「そりゃ正直、そのあたりうるせーとは思ってるけど! でもお前は仕事できるし、それに」
 言いよどんで、姫発は困ったように頬を掻く。それが子供っぽくておかしかったが、邑姜は先をうながした。
「それに?」
「それにいつも、ちゃんと俺のこと見てくれてるし。…一応ありがてえとは思ってるんだぜ」
 これでも、と冗談めかして言う口調に照れが含まれている。一瞬ぽかんとした邑姜は、こころなし赤い顔でいる姫発に、徐々に笑みを誘われた。
「…ありがとうございます」
 なんだか素直に礼の言葉が出た。彼は結構まめな性質で、感謝やねぎらいの言葉を出し惜しみすることはないが、今回は特別に嬉しい。視線の向く先を、知っていてくれた―――そんな感慨が胸浸す。
 姫発は少し目を見張り、それから子供のように破顔した。
「…なんです?」
「ん? そりゃ、お前が―――」
 言いさして、姫発は彼女よりふた周りは大きな手を伸ばした。髪に指が触れ、とっさに逃げようとする細い体を、もう片方の手が引きとめる。
「武王!」
「―――あ、わりい」
 邑姜が本気で上げた抗議の声に対し、姫発は謝る気が本当にあるのか、と聞きたくなるような口調で返した。満面の笑みを浮かべた顔は、夜陰でも喜色と知れる。
「何がおかしいんです!」
「おかしいんじゃねえよ。嬉しいんだ」
 腰を捕まえていた手を一応離し、けれども頭の上の手は髪を梳くように動かして、姫発は有能な補佐官の顔を覗き込む。
「お前、俺にあんまり笑ってくれねーからさ」
「…そんなことないでしょう」
「ある」
 言い切って、姫発はちょっとむくれた顔になる。
「旦や太公望にはそれなりに笑うってのにさ。俺にだけ笑わないようにしてんのかと思って、けっこう寂しかったりするんだぜ」
 まるで子供のような口調で言われ、邑姜は少し唖然とした。いい年(邑姜からみれば十分いい年だ)をした男の言う言葉ではないと思う。しかし彼の視線は恐ろしいほどまっすぐだった。
 子供のようで、ただ甘えているようで―――こんなときばかり、力のある表情をする。逃げるのをためらわせる、彼の目。
「…それは、だって」
 ざわついた気分を押さえつけるように、邑姜は言い返した。
「あなたは王なのですから。私が甘い顔をしたら、すぐに仕事をなまけるし」
「あのな。甘い顔と笑顔って、ちょっと違うと思うぜ」
 邑姜の髪から手が離れた。ふと、その指が触れていた場所に寒さを感じて、邑姜はわずかに身を震わせる。姫発は心得たように、またマントを邑姜の頭に被せ直した。
「まあおかげで、たまに見られると、すげー縁起のいいもん見た様な気になれるけどな。今みたいにさ」
「……」
 戸惑う邑姜に向けて、姫発は悪びれずに笑う。この男は、感情の出し惜しみをしない―――先ほどは嬉しかった感慨に、今度はちくりとした痛みを覚えさせられながら、邑姜はその横顔を見上げた。
 姫発の言うとおりだった。確かに邑姜は、彼の前では笑わないよう、意識して努めている。彼のそばにいると得られる心地よさと安堵感に、負けてしまいそうになる―――そんな自分に気がついて、改めて表情を引き締めることが一再ならずあり。
 その都度思い返すのは、邑姜を拾い上げ、生きる道を見出す手助けをしてくれた、かの養父。
 彼に教えられた一切を鮮明に記憶し、努めて実践し、すべてを身に付けた。機を見ること、流れを読み取ること。平和な会話、穏やかな表情の裏に隠されたことを見逃さないこと。それは彼女の進む道を決定付け、この場に身を置く助けとなった。
 ひとつの民族の長として、政治の駆け引きを常に意識して生きる。邑姜が自身に任じた生き方であり、それはあの牧野の戦いの前も、朝歌で政務を執るようになったあともかわらない。太公望の影を抜きにして、彼女自身が周という国に重きをなすようになり―――元より予定されていたと言ってもよい現在。しかしただ一つ、変わったことがある。それはこの姫発の存在だった。
 怒った顔も笑った顔も、すべて彼の本心。王という言葉から邑姜が連想していたことごとくを裏切り、常に素顔を晒していながら、それでも王として立つ男。
 彼と一緒にいると、つい安心しそうになる。裏を探らなくとも、ただありのまま、目の前にいる人物だけを見ていれば良いのだと。駆け引きも打算も必要ないのだと、そう思ってしまう。
 無防備な顔をさらすことは得策ではない。王と補佐官が馴れ合うことも望ましくない。人は人に対して、一時期の友好が嘘のように手のひらを返す生き物だと、さして長くもない人生で彼女は学んでいる。この王もそうではないと、誰が言えようか。
 しかし当の姫発はと言えば、常にあけすけでおおらかだった。邑姜の心の裏を敢えて探ろうとはしない。なのに、彼女が人恋しい気分になるときには、必ずと言って良いほどそばに来てくれる。―――人恋しい気分になっていることを、邑姜自身に気づかせてしまう。
 今夜のように。
 邑姜は堂堂巡りの思考を無理に中断した。視線が下に落ちる。姫発が口を開くのをさえぎるように、邑姜は彼の手から身を離した。
「―――もう戻りましょう」
「邑姜」
「明日に差し支えます。いつもどおり、政務があるのですから」
 それから彼の目を見上げて、少しだけ笑顔を作ってみる。それは邑姜自身にもわかってしまうような、ひどく硬くてぎこちないもので。
 やはり、姫発には通用しなかった。
 一瞬目を細めて見つめられ、邑姜はわずかにひるんだ。姫発はそれを見透かしたように、人を食った笑みを浮かべ、かわす隙もないまま腕の中に彼女を捕らえなおした。
「まだだめ」
 いたずらな、それでいて熱を帯びた声。背に回された腕は病人とは思えぬほど強い。そうして逃げられないようにしておいて、けれど強く触れ合わないよう注意しながら、星明りの中、まっすぐに視線を絡めてくる。
「もうちょっとだけ。な?」
 甘えるような言葉。卑怯だ、と邑姜はなぜか思い、次いで悔しくなった。
 勝てない。
 にらむように見上げてくる彼女を見て、姫発は一層笑みを深くする。
「ん、戻ったな」
「? 何のことです?」
「ま、いーから」
 笑顔でも、怒りでも。邑姜が、素の表情をさらすに増えていて、それは意識する間もないほど自然なことになりつつある。
 少しずつ、変わってゆく。ゆっくりと。それがどれほど姫発を喜ばせているか、邑姜は気づかないままではあったけれど。


「…あの、武王」
「ん?」
 ためらいがちな問いは、月が天より地に近くなった頃に発せられた。
「もし私に帰りたいところがあるといったら、許してくださったんでしょうか?」
「もちろん」
 姫発は頷く。あまりの即答振りに、邑姜はふと不安になった。現状ではありえないけれど、もし補佐がいなくなっても良いと、そんな風に思っているとしたら―――。
 しかしそんな懸念は、続く一言で払拭される。
「そしたら俺も一緒に行くから」
「は?」
 彼の言葉は予想の範疇外にあった。姫発は楽しそうに笑う。
「親父さんの方に里帰りするなら、俺も挨拶しとかなきゃだろ。いつも娘さんにお世話になってますって。羌族の方なら、今の季節は朝歌に近いとこにいるんだろ? 三日もあれば行って帰れるし」
 話が完全にずれている。旅行できる、とはしゃいでいる彼に、少々呆れたような視線を邑姜は向けた。
「そんな暇はないでしょう?」
「でもちょっとくらいなら平気だろ」
 姫発はすっかり決め込んでいるらしい。実際里帰りするようなことになったら極秘遂行だと覚悟を決めつつ、邑姜は少々意地悪をしてみたい気分になった。
「…他の場所だったら、どうなさるんです?」
「え、他って…桃源郷とかいうところか?」
「違います」
「封神台?」
「あそこには行けないでしょう?」
 あとどこがあったっけ、と姫発は首をひねる。邑姜は肩をすくめた。
「私にも、貴方の知らない知人はたくさんいるんですよ」
「…いや、そりゃそーだろーけどさ。でもわざわざ会いたい奴って?」
「黙秘します」
 あっさりと言うと、邑姜は姫発の手をすりぬけてくるりと背を向けた。
「おい、邑姜」
「本当に、もう戻りましょう。周公旦さまのお目こぼしも、きっともう限界ですよ」
「待てよ。どこに行きたいんだ?」
「もう部屋に戻って休みますが?」
「そーじゃなくって!」
 焦ったような声が追って来る。かぶったままだったマントを外すと、邑姜は少しだけ振り返り、唇の前に指を立てて見せた。慌てて口を閉ざした王の手にマントを押し付け、羽織るよう注意すると、今度こそ先に立って歩き始める。明日―――すでに今日だが―――に備える実務家の顔に戻った彼女の顔をしみじみと見て、姫発は軽くため息をついた。
「…さっきはご利益ありまくりの顔してくれたくせに」
「なんです?」
「んー、…黙秘します」
 姫発は先ほどの邑姜の口調を真似ておどけた。
 露台から戻る入り口の柱の影に、警邏の控える気配がする。内緒の―――というよりは黙認の散歩も今夜はここまで。
 王に送られて部屋への道をたどりながら、邑姜は自分の戻りたい場所に思いをめぐらせた。
 ちらりと傍らの人物を見上げると、いつも必ずやわらかい笑みを含んだ視線が戻る。
 そんな場所。
 胸の奥にひそめて、決して言葉で言うことはないけれど―――


 帰りたいのは、ただ一人のひとの隣り。

――― End 2002/08/13




…難産だった…。ストーリーのない話って書きづらい。
にしても私の書く話って、つくづく姫発礼讃だなあ…。
既に別人だ。おまけにたらし。



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