子守歌





 浅い眠りの淵から、血の色をした風景が浮かびあがる。
 幼い自分。足元から押し寄せる死。彼女を連れて走る男の腕にも背にも傷。統領一族の最後のひとりとなった、この小さな命を安全圏へ運ぶために、はや何人が犠牲になったことか。
 置いていけと何度も言った。足手纏いになっていることは、物心つく前からの聡明で知られた少女にはわかりきったことだった。走り向かう闇、その果てに未来があろうとも思われず。
 しかしその懇願が聞き届けられることはなかった。楯としてかばい、囮として走る男たち。ひとつまたひとつと消える足音。そしていつしか全ての腕は消え去る。生きることを使命と心得ながら、彼女は闇の中うずくまる。草原を渡る風は生ぬるく血の臭いを運んだ。
 明けぬ夜。いつまでもいつまでも一人のまま…。


 ―――ああ、行ってしまったのだ。
 自分の流す涙で目覚めるなど何年ぶりだろう。ぼんやりと夜半の月が煙る。こんな時間に目覚めることも、この都に着いてから一度もなかった。袷ばかりか夜着まで汗でじっとりと重い。
 ようやく復興が形になり始めた朝歌で、彼女は既に欠くことのできない地位にいた。明日も執務は目白押しに待っている。現在の休息もまた仕事。しかしこのまま横になっても、眠りはまた訪れてくれそうにない。
 静謐の中では、寝台がきしむ音も響く。何故か呼吸まで殺しながら、邑姜は床に足を下ろした。王宮の中でも奥まったこのあたりは警備兵が少ない。人に見られることなく水場まで行くことはたやすいはずだ。
 ―――そう思いながら曲がった回廊で、自分以外の沓音を聞き、彼女は思わず柱の影に身を隠した。夜の淡い明かりの中でもわかるよく見知った人影。相手を認識し、邑姜は舌打ちした。
 この国でただひとりの彼女の上司。彼もまた現在は休息の時間のはずだ。だが夜着にいつものマントを羽織っただけの服装で、庭から続く手すりを乗り越えて来る。その向こうは水場に向かう近道で、本来なら彼のような身分のものがうろつく場所ではない。
 警備兵は何をしているのか、そもそもこれは王たる者のすることか、などと呆れながらも邑姜の足は動かない。本来なら出ていって、小言の一つも与えてから部屋に強制送還するところだ。だが今は顔を合わせたくなかった。
 他のどんな欠点も補ってあまりあるほど、他人の心に聡い男だ。今の自分の顔は見せられない。涙の跡も乾かない頬。きっと青ざめたままの膚で。
 けれどそんな願いもむなしく、彼女の隠れた柱に向かって小さく声がかかる。
「…邑姜? いるんだろ?」
 身を竦ませた気配が伝わったのか、姫発は苦笑をもらした。
「寝られねえで外見てたら、オメーが寒そうな格好で歩いてるのが見えたんだよ。多分水場だろうなと思ってさ。…なんだよ、どうしたんだ?」
 隠れたままの彼女に、怪訝そうな声が尋ねた。足音が近づいてくる。慌てて袖で目尻を拭い、極力影になるようにと顔をふせる。
 だが案の定、そんな小細工は通じなかった。いつも視線を合わせて話す相手のらしくないそぶりで、彼にはそれと察せられたらしい。
「…何があった?」
「……」
 どう応えたものか判断できない。問いを突き放すこともはぐらかすことも、今の彼女にはできなかった。
 あの夢のせいだ。常ならば思いもしない繰り言を心の中でつぶやく。あの夢から戻れない。―――追われ、狩られた昔の自分。あの人の村にたどりつくまで、ひとりぼっちの子供だった頃の。
 されるままに月の照らす回廊へ手を引かれながら、ひどく心細くなっている自分に気づく。
「…黙秘します、か?」
 苦笑混じりにつぶやき、姫発は邑姜の頭からすっぽりとマントを被せた。回廊の手すりに背を預けながら、同時に彼女のか細い体を引き寄せる。抱きしめられる格好になって、邑姜は初めて抗議の声を上げた。
「武王!」
「泣くならこっちの方がいいぜ、様になって」
「何を…っ」
 布越しに感じる姫発の唇の感触に、邑姜は一気に我に返った。
「泣いてなんかいません!」
「ふうん、そうか?」
 余裕のある声で軽く尋ね返し、姫発は片手で布ごと彼女の髪をかき混ぜた。邑姜はじたばたと暴れたが、残る片手で腕と背中を抱え込まれ、まるで動くことができない。
「武王、いい加減に…」
「―――うちの弟とか、妹とかさ」
 いささか唐突に姫発は口を開いた。低められた声は真摯さを帯び、邑姜の抵抗を止める。姫発は髪を混ぜていた手を彼女の背に回し、なだめるようなリズムで軽く叩いた。
「親父や兄貴がいなくなったときに、けっこうチビだったやつも多くてさ。夜眠れなくなったり、泣いてたりした奴もいたんだけど。…今オメー見て、それ思い出した」
 少年のような口調。被せた布の隙間から、邑姜の額に触れる寸前のところで声がする。ひどく甘い響き。
「わりいな。こういう時に一人にしときたくねえんだ。…俺の思い込みでも何でも」
 逃げられないようにか、彼女を半ば抱き上げるようにしながら、姫発はゆっくりと言葉をつなぐ。返答を先回りで封じられ、邑姜はあきらめて体の力を抜いた。
「…本当に、考え過ぎです」
「そうか?」
「そうです」
 言葉と裏腹にもたれてくる彼女の髪から、姫発はそっとマントを外した。頬に指が触れる。体温が直に伝わり、温かいと思うのに、邑姜の体は震えた。
 あの人にこんな風に触れられたことはない。抱きしめられたことも。
 けれどその存在をいつも近くに感じていた。羌族の村で育ち、桃源郷で裁判官を務め、今は王の傍らにあって補佐をし―――つねにするべき事を成し、心地よく疲れて夜を迎える。その夢の中に恐怖はなかった。どんな悪夢も、あの人が近寄らせなかった。
 どんな孤独の記憶も。
 邑姜の髪を掻きやる姫発の手が止まる。新たにあふれる涙が彼の指を伝い、落ちた。
 太公望たちと共に行ったのだろうか。それとも、想像できないけれど、独りで行ったのだろうか。彼らの戦場へ。―――長い長い眠りはそのためだと、邑姜は知っていた。きっと去るときは何一つ言わずに行くだろうことも。
 養い子の夢を守ることも叶わぬほどの遠くへ。
 覚悟はしていた。目覚めているときならば、きちんと別れを受け止めて、理性で対処できたはずだった。けれど夢は無防備で、守られ続けてきたが故に、彼が去って行く気配をそのまま脳裏に刻みつけてしまった。だから涙が出る。羌族の統領に、王の補佐官に、決して相応しくない涙が。
 姫発は沈黙を保ったまま、邑姜の背に流れる髪を時折柔らかく梳いている。その手は心地よく、あの夢の安息を思い起こさせる。布地越しに感じる体温や、指先を通して届く鼓動は、あの人が与えてくれたものとはまるで違っているけれど。
 涙が流れるにまかせたまま、それでも小さく笑った気配が、彼女を包み込んでいる男に伝わる。
「…どうした?」
「…いえ」
 軽く胸を押すと、背に回されていた腕の力が緩められる。それでも名残押しそうに肩におかれた手を、邑姜は払わずにおいた。
「私はとても恵まれた子供だったのだと、そう思って」
 くしゃくしゃになってしまったマントを指で引き寄せながら笑う。それは本心だった。ほんの昨日まで、どこにいても、巨大な敵を見張りつづけていてさえも、彼女を気にかけていてくれた養父がいたこと。
 それは確かに幸運なことだったと思う。
「…ふうん」
 姫発は邑姜からマントの端を奪い、乱暴に彼女の顔を拭った。当然の如く上がった抗議の声は綺麗に無視する。いつもと立場が違うなと思いながらも、姫発は少し面白くない。
 親元から独立した、もしくはせざるを得なかった子供の言葉。彼は邑姜の生い立ちや養い親のことはあまり知らなかったが、おそらくは今夜、誰かとの別れがあったのだろうことは察しがついた。
 ―――彼女をこんな風に泣かせるほどの、誰かと。
「…そっか。そんなのが、いたのか」
 脈絡のない姫発の言葉に、邑姜はそれでも肯いた。肯くことができるのは幸せだと、寂しさと共に想いをかみ締めながら。


 迷った挙げ句、姫発は一つの言葉を飲み込んだ。
 本当は最初から、彼女の元へ行こうとしていたこと。
 今夜の夢の中に、彼の知らない、ほんの小さな子供の頃の邑姜がいた。傷だらけで一人、夜の草原を歩いていた。思いつめたように機械的に足を動かしながら、一粒の涙も流さずに。
 これは自分の夢じゃない、となんとなく悟った。誰かが見せている夢だと。けれど呼ばれるように目覚め、ためらわずに部屋を抜け出した。泣いてはいないだろうと思ったが、それでも確かめずにいられなかった。
 夜中に女性の部屋を訪ねるのは無礼かとちらりと考えたが―――まあ、たたき出されるくらい元気なら安心できるし、などと思い直したりもして。
 途中誰にも見咎められず、すぐ邑姜を見つけられたのも、もしかしたらあの夢の主が何かしたのかもしれないと思う。多分、彼女の涙の原因である人物。かなり癪だが、それでも一人で泣かせるよりよほど良かった。―――ひとりで泣くこともできずにいるよりも、ずっと。


「眠れそうか?」
 部屋へ戻る道すがら、姫発がそんなことを尋ねた。マントは彼の肩に返されている。顔を洗って有能な補佐官の顔に戻った邑姜は、要らぬ心配だといつもどおりに答えた。落ち着いてしまえば、雑務で疲労した体は素直に睡眠を欲しがる。姫発はにっと笑って、彼女の髪にぽんと手を置いた。
「子守歌でも歌ってやろうか?」
「いりません。武王も、早く戻ってお休みください」
「冷てえな。結構上手いんだぜ」
 大袈裟に拗ねてみせてから、姫発はふと真顔になった。角を曲がればすぐ邑姜の部屋。姫発の部屋は更に上にある。
「―――呼べよ」
「え?」
「また眠れなくなったりしたら、呼べよ。いつだって来てやる」
 姫発に真剣なまなざしを向けられ、邑姜は言葉を失う。
 これもまた要らぬ世話だと切り返すべきなのだろうが、それを許さない色が姫発の目にあった。だが肯くこともできず、困惑して立ち尽くす。
「まあ俺がいたって役に立たねえかもしれねーけど。枕になってやるし、愚痴だって聞くぞ、いくらでも」
「…夜中に、私事で王を呼びたてろとおっしゃるんですか?」
「いつだろうと俺が誰だろうと、関係ねえよ。いいから呼べ。―――呼ばねえで寝不足の顔してたりしたら、夜にオメーの部屋に押しかけるからな」
 強い調子で言うと、姫発は表情を和らげた。自分の肩からマントをはずすと、絶句している邑姜の頭からばさりとかける。
「いいんじゃねえの、たまには。恵まれた子供が恵まれねー秘書になっちまったりしたら、オメーの親だか誰だかに殺されそうだし」
 秘書という単語を口にするとき、ちらりと姫発は複雑そうな表情になったが、暗がりが幸いして邑姜には見えない。
「あの人はそんなことしませんよ」
「だといいけど。ま、今日のところはこれだけな。俺の替わりってことで」
 ほんとは添い寝でもしてやりてえけど、などとマントを引きつつ耳元でささやかれ、邑姜は耳まで赤くなった。
「何を言ってるんですか!」
 勢いよく平手が飛ぶ。姫発は避けながらからからと笑った。いつもの調子が戻ったのを見て、やっと安心したらしかった。彼女の部屋の前まで並んで歩く間も笑いは収まらず、邑姜は子供扱いされているように感じて少し機嫌を損ねた。どこかくすぐったいように嬉しくもあったが。
 戸を開いて振り返ると、また笑顔。但し少しだけ真剣な。
「んじゃな、おやすみ。―――ほんとに呼べよ」
 冗談めかした声で念を押すと、姫発は邑姜を部屋へうながした。彼女が一礼して扉の内側に入るまで、姫発はそうして立っていた。
 なんとなく鍵をかけないまま、邑姜は閉ざした扉の前で息をひそめていたが、やがて足音が遠ざかって行く。急に胸が痛くなって、慌てて扉を開けたが、もう廊下に人影はなかった。
 自分がひどくがっかりしていることに気づいて、邑姜は頭を振る。ばかばかしい、こんな時間に彼の後を追うなんて―――彼を戻らせるなんて、非常識なことができるものか。そう考えてまた、自分がそれを期待していることを必死に否定する。頬が火照っておさまらない。
 ため息をひとつ。鍵をかけて寝台に近寄ると、頭からマントを被ったままなのに気づく。かなり皺だらけになってしまったそれを、畳もうと思いはしたのだが、邑姜の手はそのとおりに動かなかった。マントごと自分を抱きしめるようにしながら、丸くなって寝台に横たわる。
 くるまった布地から日と草のにおいがする。先ほどもずっとこれと、それから男の腕に抱かれていたのだと思い出し、一気に頭に血が上った。
 王の纏わらせるものではないと思う―――だが姫発という男には、その香はよく似合った。おおらかで暖かい、春の草原を思い出させる。
 どこか懐かしい。封じている記憶の辛さごと彼女をくるみ込んでくれる、あの夢と同じように。
 跳ねる心臓をなだめようと努力しているうちに、幸いにして眠気がちゃんと訪れてくれた。今度は悪夢を見ずに済むような気がして、邑姜は体の力を抜く。
 かの人の無事と再会を祈りながら。
 それでも目が覚めたら、最初に王の顔を見たい。―――そう思っている自分に気づかないまま、邑姜は眠りのうちに落ちていった。


――― End 00/9/29







発が気障…
私の書く発は、人の髪をかきまぜたりするのが好きみたいです。
べたべたした二人の話をあまり読んだことがないのでつい書いてしまったお話。
ちょっとやらしくしたいなーと思ったんですが、
邑姜ちゃんがまだプリンちゃんじゃないので無理でした。なごりは各所にありますが。
この話の間お城の警備兵さんたちが何してたかといいますと、ちゃんとお仕事をしてました。
ただ二人がいちゃいちゃしてたので出るに出られなかっただけで ^_^;)
なお本人は出てきませんが、影の主役は老子です。
最初は谷山浩子さんの「子守歌」のイメージで書いてました。離れてしまいましたが。



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