二人の距離を





「太公望が来てないか!?」
 そうけたたましく尋ねながら、鳳凰山に太乙真人が飛び込んできたのは、既に夜も更けきった頃のこと。
 ちょうど休むところだった竜吉公主は、しかし来訪者の非礼を咎めるようなことはせず、弟子が止めるのもかまわずに自ら応対に出た。相手の切迫した空気を察したからである。すすめられた椅子を断る太乙に、竜吉公主も立ったまま答えを返す。
「太公望は、こちらにはしばらく顔を見せておらぬよ」
「じゃあ、今どこにいるかも」
「…見当がつかぬのう」
「あああ、万事休すだ…」
 息が切れている太乙に、赤雲が冷たい茶をすかさず差し出す。遠慮なくそれを飲み干してから、太乙は困り果てたようにため息をついた。
 彼の視線がわずかにさまようのを見て、公主は目線で弟子たちを下がらせた。人払いの完全を確認して、太乙の口が漸く開く。
「今日の昼から―――ああ、もう昨日だなあ、とにかく行方が知れないんだ。元始天尊さまの黄巾力士で脱走して」
「……」
 竜吉公主は瞬きして、太乙の言葉を頭の中で繰り返した。
「…脱走?」
「うん。昼に私のところまで使いに来て、それから誰も彼を見ていない。夕方になって、黄巾力士だけが戻って来たんだって」
 一応他の十二仙や、太公望と親しい者のところにはすべて尋ねて回ったのだという。太乙の説明を聞きながら、竜吉公主はわずかに首をかしげた。
「…つまり、崑崙にはもういないということか?」
「…じゃないかと思うんだよね。元始天尊さまもざっと千里眼で探したけど見当たらなくて。あと崑崙で探してないところは、個人の洞府の中だけなんだけどさ」
 あまりうかつに訪ねて回って、大騒ぎになっても困る。そう言いながらも、太乙は大袈裟に頭を抱えた。
「私たちにはもう行き先の見当はつかないから…公主なら何か知らないかと思ったんだけど」
「…それより、何故脱走など?」
 公主はまた首をかしげた。修行がつらくて逃げ出す者もいるが、崑崙に上がって数年、太公望はまず優等生と言って良い熱心さで励んでいたはずだ。当然の疑問だったが、問われて太乙の表情には暗い影がさした。
「えーと…公主は、あの子の生い立ちとかは知ってるよね?」
「―――まあ、簡単なところは」
 経緯は知らないが、殷の皇后に一族を殺されたと、本人から聞いた。そう話すと、太乙は目を丸くして竜吉公主を見つめた。
「太公望が自分で言ったの?」
「そうだが…何か驚くようなことか?」
「…いやあ」
 慨嘆を含む口調で言い、太乙は何度か頷いた。
「そうか。すごいなあ」
「何がどうすごいのじゃ?」
 聞いたときのことを思い返しながら竜吉は尋ねた。太公望は話の流れで、ついでの様に家族のことを話してくれたのだ。それでも辛そうな様子は見て取れたので、深く突っ込んで聞く気にはならなかったのだが。
「うん、わかってないところがすごいよ」
 答えになっていないことを太乙は言った。太公望が自分から家族のことを話した相手は彼女くらいだろう。だがそう告げるのも何故かためらわれ、さらに問いを重ねられる前に、気を取り直して話を戻した。
「それでね。その皇后―――王氏と言ったかな。つい最近、行方不明になったんだ」
「何?」
「先月かな? 死んではいないらしいけど、聞仲が戻って追い出されたんだ。それでね、太公望は昨日初めてそれを知ったらしい。…私が言っちゃったんだけど」
 太乙はそこで言葉を切った。一度瞬きして、竜吉公主はすべてを了解した。
 「悪い奴をやっつける」―――以前太公望から聞いた、仙人になるための理由。その「悪い奴」というのが誰なのか竜吉公主は聞かなかったが、おそらくは家族の仇であるその皇后だろうと見当はついた。彼の目にはその瞬間だけ暗い影が宿り、目の前の彼女を突き抜けて、過去へと視線を及ばせていたから。
「…当面の目標が失せた、ということであろうな」
 太公望は外見よりは年をとっているが、まだ実年齢も少年と言ってよい年だ。頑ななまでにまっすぐなあの精神が、ただ一つ立ち向かおうとしていたものが、彼の預かり知らぬところで消滅したとすれば―――惑ってしまうことは容易に想像できる。
「私たちもね、それが心配なんだ。でも、もし闇雲に地上に飛び出したんだとしたら、行くあてもないだろうから」
「以前住んでいたところはどうじゃ?」
「もう道徳と玉鼎が行ってきたよ。廃虚もほとんど残ってなくて、誰もいなかったって。だから他に手がかりがないかなって…」
 太乙がそこで口を閉ざしたのは、竜吉公主が視線を伏せて考え込んでしまったからである。ひょっとしてまずかったか―――そう頭の中で自嘲がちらついたとき、彼女は一つ頷いて顔を上げた。
「わかった。私も少し、降りて探してみよう」
 やっぱりー、と叫びたいのをこらえて、太乙は制止を試みた。が、公主はもう傍らに水の宝貝を呼び出し、すっかり出かける体勢になっている。
「って公主! 地上は駄目だよ、絶対」
「緊急事態であろう」
「待ってってば。心当たりがあるなら私が行くよ」
 彼女の体に人間界の大気が毒であることは周知の事実だ。だが本人はそれに構っている様子も見せない。太乙は心底慌てて引き止めた。この美貌の女仙は結構無鉄砲なところがあるのだと、いつか太公望から聞かされたことがあったが、実は半信半疑だったのだ―――が。
「別に心当たりはない。まあ、危なくなる前に戻るよ」
 あっさり言って、公主はさっさと部屋から出ていった。あとを追った太乙の目に、一筋の青い光が、既に鳳凰山を離れて下りていくのが映る。碧雲と赤雲がうろたえて呼び戻そうとしているのを見ながら、太乙は更に頭を抱えたい気持ちになった。
「…太公望が戻ったら叱られるなあ」
 それでもそんな言葉が漏れたのは、彼女に対する信頼の現われと言えるかもしれない。



 太乙に「心当たりがない」と言ったのは、半分は本当だが半分は嘘である。場所は確かに知らない。だが、太公望を引きつけるだろうものが、地上にあることは知っていた。
 頬に当たる風が少しずつ濁り始める。公主は水のバリアを少し厚くした。これがただの気休めに過ぎないことは、もう息苦しくなり始めた呼吸でわかる。真夜中の草原が眼下に広がり、細い月の光を受けてざわめいた。
 竜吉公主は一旦宙にとどまり、無理を承知で、注意深く息を吸い込んだ。人界の地理には疎いが、自然の織る数々の香りには詳しい。そうしてとある花を追うつもりだった。だがとたんに咽て、公主は急いでバリアを張り直した。
 喉の奥でせき込む音が我ながらわずらわしい。
(…そう言えば、限界まで人界にいたことなどなかったな)
 そう思いながら、公主は風の渡る草原を見渡した。早い春の季節だが肌寒く、人里は遠い。遊牧の民たちはとうに休んでいる刻限だ。このどこかに太公望がひとりでいるかと思うと、少し血の引き始めた自分の体にかまう気がしなくなる。
 ひとしきり呼吸が落ち着くと、竜吉公主は再度の挑戦を試みた。今度もまた、バリアが解けた瞬間に喉が焼ける思いだったが、それでも求める花の香は捉えられた。つつましい香りだが、春を求める野にあってひときわ強く感じられる。方向を定めてバリアを張り直すと、目に天の中心、北極星が映った。雪を追い払うように咲くあの花は、もう北へとその姿を移動しているらしい。
(地平線まで一面に咲くんですよ)
 初めて会ったときに、太公望が言っていたこと。地上と同じ花を崑崙に見出して沈んでいた彼。実のところ、それまで竜吉公主は、地上にさしたる興味はなかった―――というより、興味を持たないようにしていた。だがその言葉を聞いて、広い草原や、春の花を待つ人々の生活を見てみたいと思うようになった。
 当時太公望はまだ呂望と呼ばれていて、人界の大気が彼女の体に毒だとはまるで知らず、いつか案内しようと気軽に約束してくれた。竜吉公主は少しくらいなら平気だろうと、結構楽しみにしていたのだが、約束は後で太公望の方から破棄された。知らなかったと平謝りに謝られ、寂しさを感じたのを覚えている。
 時折休んで呼吸を整えながら、竜吉公主は地上に目を凝らした。とりどりの花がか細く地を染めている。だがあの花は純白、月光で最も冴える色。しばらく飛び続けるうちに、やがて目指す手がかりを見つけたことを、竜吉公主はほんのりと光り始めた大地から悟った。
「…これは…」
 困惑した声が漏れる。太公望が言っていたことは誇張でもなんでもなかったらしい。見渡す大地すべてに、雪をおいたような花が散らされている。崑崙では鳳凰山だけにある花だから、一面と聞かされていても想像力に限界があった。
「…この中から探すとなると…」
 さすがに途方に暮れる。一度戻って協力を仰ぐか。だが、なぜ太公望の所在の見当がつくのかとたずねられたら―――この花にまつわる話を余人にするのは、少々癪な気もする。いずれにしても彼を首尾よく見つけられれば、当然問われることになろうが。
 竜吉公主は苦しい息をつきながら思案すると、少しだけ高度を上げた。水の宝貝、「霧露乾坤網」は彼女の周囲に控えている。竜吉公主はその雫を一つ一つ散らして、月光を集めながら広がるように形を変えた。
 向こうの居所がわからぬのであれば、こちらから知らせれば良い。
 仙人や道士には、強い宝貝の気配を察知することできる。もし眠っていたとしても、水の波動は意識を呼び覚ます。竜吉公主が来ていると気づけば、彼はきっと探しに来るだろう。他の者が呼んだのであれば、かえって逃げてしまうかもしれないが、彼女ならば放ってはおけまい。―――その体を案じて。
 卑怯なことをしているかも知れない、と竜吉公主はかすかに思った。
 もし太公望が望んで崑崙を抜け出したのなら。仙人としての未来を捨て、人に戻りたいと望んだのであれば、自分にそれを止める権利はないだろう。だが今、彼の持つ優しさにつけいるような真似をして、彼を呼び戻そうとしている。
 それでも、戻って欲しいと思うわがままを、竜吉公主は敢えて止めなかった。
 水の網がざわりと空に広がる。月光を反射し、また照り返して、地上からは夜空に光の筋が幾重にも纏わっているように見えた。使い慣れた宝貝ではあるが、この状況ではひどく体に堪える。だが竜吉公主はそれに耐えた。この位は甘受しなければ、太公望に申し訳ないような気がした。
 目を伏せ、宝貝が月光を使って地上に織り出す光点を追う。これは以前、宝貝のことをあれこれと知りたがっていた太公望に、参考までにと見せた術だ。炎に対する戦いでは有効だが、それ以外ではただ美しいだけで、たいした役に立たないと思っていた。だが彼の感嘆したような声を聞いて、これはこれで良いと思うようになったのだから現金と言えようか。
 操れる限界まで水の網を広げてしばし待つ。息苦しい喉には、それはとても長い時間に感じられた。
(…気づいてくれぬものか。それとも、気づく距離にいないか―――)
 よもや、敢えて気づかぬふりをするほどに、崑崙の地を厭うものか。
 ぐらりと身体が傾ぐ。落ちる、と感じた。重力に引かれる感覚など久しぶりだ、と悠長なことをちらりと考えたとき。
 花の海を、まっしぐらにこちらをめがけて駆けてくる影が一つ、視界の隅をかすめた。
「……おお」
 無理に顔を上げてそちらを見やり、竜吉は苦しい中で安堵の息をついた。月光でもそうと分かる朱の入った髪。頭巾はないが、見慣れた道服のままで。彼女を見上げて、足元もかまわずに走ってくる。
「…太公望…」
 竜吉公主は何とか体勢を立て直し、降りるというには早く、落ちるというには遅い速度で地上に下った。宝貝を収めても疲労は濃い。太公望を笑顔で迎えようと思うのに、頭は重く、意識も靄がかかったようだ。髪の先が地に触れ、浮くこともままならない。
「公主! 公主、大丈夫か!?」
 せっぱ詰まった声が飛んでくる。竜吉公主は何とか顎を持ち上げた。水のバリアは彼をやんわりと内に迎え入れ、続けて主を守る。
 触れる直前に一瞬躊躇した手は、それでも彼女がくずおれる前にその体を支えた。
「公主!」
「…大丈夫じゃ」
 努めて平静に聞こえるように声を出し、地に足をつきながら、竜吉公主はそっと太公望の腕を捕まえた。逃げないで欲しいと思いながら。
「何が大丈夫じゃ。ひどい熱ではないか」
 叱るように言いながら、太公望は竜吉公主が楽な体勢を取れるよう、自分によりかからせた。頬を太公望の肩に乗せ、腕をもう片方の肩に回して、初めて竜吉公主はひどい汗をかいていることに気づいた。熱があることなどわからなかった―――いや、顔を見たら安心してどっときたのだろうか。竜吉公主は苦笑して太公望に体重を預けた。
「本当に、大事ない。それより、よく来てくれたな」
「…それはこっちが言う台詞のような気がするがのう」
 気まずそうに呟き、太公望は竜吉公主の額にかかる髪を払ってやった。その手が恐る恐ると言う風情だったので、竜吉公主は可笑しくなる。おそらく、そんな場合ではないのだが。
「仙界は結構な騒ぎのようだぞ? 十二仙が総出で探しているらしい」
「う…やはり」
 参った、と言いながら、太公望は空いている方の手で頭を掻いた。
 彼がこんな風に困った顔を見せるのは珍しい。考えがあって人間界に降りたのかと思っていたが、実はそうではないようだ。言い訳も考えていないらしい。
「…すまなかったのう」
 結局言葉はみつからなかったようで、太公望はぽつりと一言だけ告げた。
「別に、かまわぬよ」
「それにしても、まさか、おぬしが来てくれるとは思わなかった」
 しみじみと言われて、公主は今度こそ声を出して笑った。とたん容赦ない咳が襲ってきて、太公望は慌てて彼女を支え直した。
「話をしている場合ではないな。なんとか、帰る算段をせんと」
 躊躇なく「帰る」という言葉を口にする彼に、それこそ全身の力が抜けるほどの安堵を感じる。だが竜吉公主は、軽く太公望の手を押し返して、大丈夫だと笑ってみせた。
「心配するでない。そなた一人連れて戻るくらいの力は残っているよ」
「しかし、連れて戻ると言っても…」
 太公望は一瞬、彼女に背負われて空を飛ぶ様子を想像してしまった。何より、このぐったりした彼女を見て、はいそうですかと頼めるものではない。
「…では、誰か来るまで待つとするか? だいぶ派手に宝貝を使ったから、元始さまあたりはもう気づいていると思うぞ」
「そうだのう…」
 それまで彼女が持つものかと、太公望は眉根を寄せた。彼女にはこの大気が毒だと聞いてはいるが、どこまでが許容範囲なのかはわからない。
「…帰りたくはないか?」
 考え込んでしまった太公望の顔を竜吉公主が覗き込んだ。太公望は一瞬目を見張り、違う誤解をされたとわかると、急いで頭を振って否定した。
「それは、違う。今回のことにしても、…ちょっと、その」
 何と言ったものか迷うように、太公望は有らぬ方へ視線を逸らして考え込んだ。
「太公望?」
「あー、少し…独りで考えてみたいことがあって。…この花を見て、つい、反射的にだな」
 言葉に詰まりながらも説明を試みる太公望に、竜吉公主は静かに笑いかけた。
「理由など、言わぬでもよいよ」
「え?」
「そなたが言いたくないことは、私も聞きたくないから…」
 ささやくように言われ、太公望は瞬きした。視線がまともにかち合って、少しうろたえるようなそぶりを見せる。彼女は至近距離で見るには綺麗すぎる、などと考えていることは、竜吉公主には伝わらない。
 竜吉公主は膝をかがめ、足元で咲く花にそっと手をやった。丈の低い花の群れは、足蹴にされてなお強く立ち直っている。
「そう、そなたは、約束を守ってくれただけであろう?」
「約束?」
「いつかこの花を一緒に見に行くと、昔約束したではないか」
 のう、と相槌を促され、太公望は目を見張った。
「…覚えておったのか」
「勿論じゃ」
 そう言うことにしておこう、と竜吉公主は軽く笑った。
 大事な、優しい色をした思い出。こんな形でもあの約束を果たせて、実は喜んでいると知ったら、太公望はどう思うだろう。
「もしまた独りで見たくなったら、必ず私が迎えに行くからの。抜け駆けはなしとしよう」
「う…大した脅迫だのう」
 あり得ることだと思って、太公望は本気で青ざめてしまった。
 竜吉公主はまた笑った。
 こんなことが脅迫になるのだから嬉しい話だ。自由に動けぬ身を、もどかしく思うのは本当だけれど。
 自分を案じてとどまってくれるのであれば―――この身体も、少しは役にたつということか。
「ずるくて申し訳ないのう」
「…いや。せいぜい、仙界から落ちたりせぬようこころがけよう」
「では、もう一度約束じゃ。…いきなりいなくなるようなことはせぬように」
 真摯に見つめられて、太公望はしっかりと頷いた。
 自分は本当にこの女仙に弱いのだと自覚する。少なくとも、この大地の花を踏んで走ることを、いささかも厭わなかった程度には。
 太公望は道服の上着を取り、竜吉公主をくるみこんで地面に座らせた。早春の冷たい風から彼女を守るように、すぐ隣に座って肩を抱える。あまり触ってはならないような気もしたが、竜吉公主は逆らわなかった。
 ほのかに香る一面の花が、ひどく優しく感じられる。
 はるかな空に黄巾力士の丸い影が現れるまで、わずかな時間、二人はそうして月光に映える花に包まれていた。


―――End 99/01/29





たまには単純なハッピーエンドを書こうと思い立って書き始めたのに、
なんでこうどこか暗くなるんだろう。まじめに不思議…。
でも竜吉さまを書くと楽しいです〜。形容詞を考えるのが特に楽しい。



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