華よりも





 鳳凰山に使いに出された帰り、呂望は白い花の咲き乱れる崖の上で足を止めた。
 迎えに来てくれる予定の白鶴の姿はまだない。崑崙山は高い空の上にあるため、移動には困難を要する。飛行の術を修めない限り、他の飛べる仙人や飛行宝貝に頼らなければどこへも行けない。玉虚宮へも、もちろん地上へも。
 呂望は辺りを少し見回すと、そこで白鶴を待つことに決めた。柔らかい花の香りがあたりを満たしている。それはどこか、先ほどまでいた洞府の香に似ていた。
 折悪しく浄室に篭ってしまったところとかで、鳳凰山金鑾斗闕の主たる竜吉公主は顔を見せなかったが、弟子の女仙たちがあれこれともてなしてくれた。だが呂望には、それは妙に居心地悪く感じられた。まだ修行を始めてほんの数ヵ月、満足に道士とも言えないような自分が、元始天尊の直弟子というだけで「師叔」などと呼ばれるのはおこがましい気がする。女仙たちがまた、彼が畏まるのを見て面白がるので、呂望はもてなしを早々に辞退して外に飛び出したのである。
 花を踏まないよう注意しながらうずくまって、呂望は少しため息を付いた。花の白は彼のいた下界と同じ。寒さのためか、ここでは少し季節に遅れて咲くらしいその花を、呂望は寂寥と共に見つめた。
 地上では雪解けの後に咲く最初の花だ。それを母と妹のために摘むのはいつも彼の仕事だった。それを合図にしたように、人々は冬ごもりから抜け、家畜を野に放つ。貧しかったが、それでも時の移ろいを目に焼き付けられる春は、皆が幸せそうにしていた。
 ここにもこうして同じ花が咲いている。でもそれを見ている自分はひとりだ。摘んでも受け取ってくれる人はいない。
 この空の上での生活は、今までとあまりに違っていた。言葉を話す動物、見たこともない姿形の仙人たち、見せられる数々の奇跡と力―――かつて彼とは縁もゆかりもなかった人々。修行に紛れて過去から目をそらそうとしても、時折こんな風に何でもないことが彼の思いを引き戻してしまう。
 かすかに風景がにじむ。それがいやで、目をこすろうとしたとき。
 視界の隅に水の青が映った。
「―――そなた、どうかしたのか?」
 降る声は上方から。慌てて視線を上げると、そこには見たことのない女仙が、彼を見下ろしながら浮いていた。
 呂望は二度三度瞬きし、先ほどまでのもの思いを瞬時忘れて彼女を見つめた。
 これほど美しい女性を見たことがなかった。
 長いつややかな黒髪、身に纏う青は水の清冽。何気なく空中に浮かんでいるが、それがとても高等な術だということは知っている。長くすそを引いた姿にも大仙女の風格が漂っていて、呂望は気を飲まれた。
 だが彼女の声は穏やかで、どこか親しげな調子を帯びている。
「美しい花を見て憂いを上らせるとは、珍しい御仁だな。それとも、気分でも悪いのか」
 冷めた色の頬をしながらも、佳人は涼やかな眼差しで呂望を見下ろす。何と答えたものか思い付かずにおろおろしていると、彼女はかすかに笑って、呂望の隣まで降りてきてすいと膝を抱えた。宙に浮いたままではあるが、非常に整った造作の顔が間近に来る。だがその仕種は気さくなもので、呂望は少し安心した。
「私は竜吉公主と申す。この鳳凰山の主だ。そなた、名は?」
 言われた名はどこか予想していたものだった。が、問われて初めて、呂望は自分が何一つ口をきいていないことに思い至った。
「呂望、です」
 本来は玉虚宮元始天尊門下、などと名乗るべきところだったが、あまり慌てていたので一切忘れてしまった。だが相手からは心得たような頷きが返ってきた。
「そなたのことは聞いている。元始様のお弟子であろう? 先ほど使いで来てくれたそうじゃな。出られなくて失礼したと思っておったのだ」
「…いえ」
 おずおずと頭を横に振った少年を、竜吉公主は少し怪訝そうに眺めた。
「どうしたのじゃ? そなたは私とは同格じゃ。何の気遣いもいらぬよ」
「はい。ええと、実はそれが、まだ慣れなくて」
 気遣いではなく、相手の美貌に落ち着かないだけなのだが、そう言うわけにもいかずに呂望は言いつくろった。
「僕はまだ、ここに来て半年にもならないし…まだ全然、ちゃんとした術なんかも使えないし」
「始めはみんなそんなものじゃ。それで畏まることなどない」
 竜吉公主は軽く笑って呂望の顔を覗き込んだ。少年の生真面目さを面白がっているようだったが、不思議とそれは不快ではない。太乙真人あたりに同じような顔をされると、いつも不機嫌になってしまうのだが。
「ことに熱心だと聞いておるよ。それに、十二仙たちが口をそろえて賢いと言っていた」
「え、ええと」
 お世辞でもなさそうに誉められて、呂望の思考があちこちに跳ね回る。
「でも公主さまも、すごく強いって聞いてます。十二仙もかなわないくらいの、崑崙一の大仙女だって」
 呂望は大急ぎで、いつか元始天尊から聞いた彼女の評を披露した。だが、かえって視線がふいと逸らされてしまう。
「竜吉、で良いよ。それが嫌なら公主と言い捨てると良い」
「え?」
「ついでに言うなら、丁寧語もなしだと嬉しい。十二仙たちも皆そう言うであろう?」
「…はい」
 呂望は返答しながらも、わずかに首をかしげた。序列に厳しいはずの仙人たちが、何故か彼にはとても甘い。兄弟弟子とは言え末席も良いところなのだが、丁寧語を使ってしまうたびにしつこく訂正が入る。
「それに皆さん、書を貸してくれたり、お茶に招いてくれたり、黄巾力士で散歩に連れてってくれたり…」
 おおまじめに指折り数えながら話す呂望に、竜吉公主は思わず苦笑した。
 封神計画―――いずれ仙人界と人間界すべてを巻き込むことになる計画の、担い手として期待される道士がこの呂望だ。竜吉公主にもそれは知らされている。最初から序列を度外視した育て方をすると、元始天尊が決定したことは耳に新しい。
 だがおそらく、十二仙たちが彼を甘やかすのは、それが理由ではあるまい。竜吉公主などは序列を気にする方なのだが、それでもこの少年を前に表情を固く保つのは難しい気がする。目に映るものすべてを鮮明に捉えて反応する、くるくると変わる表情。まるで小犬のようだ。見られることに慣れきったこの美仙女をして、長く印象にとどめてしまうだろう瞳をしている。
 過保護にもなろう、と内心で頷き、竜吉公主は自分が甘くなっている言い訳をした。
「ずいぶん熱心に見入っていたが、この花が気に入ったのか?」
「え、あ、はい。僕が前に住んでたところにもあったんです」
「ほお」
 竜吉公主はふっと目を細めて笑った。
「これは、私も好きな花なのだが。地上に咲くと同じなのじゃな」
「はい。こっちの方が咲くのが遅いみたいだけど」
 言いさした呂望はまた首をかしげ、竜吉公主の顔を見詰めた。
「公主さま、人間界でご覧になったことはないんですか?」
「だから、呼び捨てろというのに…」
 そう訂正を入れてから、竜吉公主は瞬きして呂望の顔を見返した。自分は地上へは降りられないのだ、と答えようとして、なぜか言葉が出てこない。
「私は仙界生まれの仙界育ちなのでな。あまり地上に降りる機会がないのだ」
 とりあえず嘘ではない。本当の理由は、地上の空気が竜吉公主の体には毒だということだが、そんなことを言えばきっとこの子は気を遣ってしまう。
 が。次に呂望が言い出したことを聞いて、竜吉公主は少しだけ後悔した。
「あの、じゃあ、次に花の咲く季節になったら行ってみませんか?」
「……人間界へ?」
「はい」
 こっくりと頷いて、呂望は邪気のない笑顔を公主に向けた。
「ここのも綺麗だけど、地上のもすごく綺麗なんですよ。地平線まで全部、一面に咲くんです」
 こんな風に、と呂望はふわりと両手を広げてみせた。広い場所を示しているらしいそれは、だがこの鳳凰山の上では想像を掻き立てることができなかった。ほんの少し行けば断崖絶壁、花はその上のわずかな場に身を寄せ合うように咲いているのだ。
 だが竜吉公主は、少し地上に興味を覚えた。いや、地上だけではなく、どう説明しようかと真剣に考えを巡らせているこの呂望という少年にも。
「そうだな…一度、見てみたいものだな」
 竜吉公主はそうつぶやき、傍らの少年の顔を覗き込んだ。
「そなた、案内してくれるのか?」
「はい、もちろん」
 元気よく答えて、呂望は年相応の笑顔を見せた。彼につられて笑顔を返す公主を、本当に綺麗だと、心のどこかで思いながら。
 外見だけではない。身に纏う空気、雰囲気とでもいうものが、この女性はことに澄んでいる。隣にいると、水辺を渡る風のような清冽な風が漂うように感じられ、居心地がとても良い。
 きっと彼女と一緒に見たら、花ももっと綺麗に見えるだろう。
 竜吉公主はふと視線を上げた。視界の隅を丸いものがかすめて飛んでいく。呂望は気づいていなかったが、それが迎えであることは察せられた。
 名残惜しいような気分で、竜吉公主は空中へと体を浮かせた。
「公主さま? もうお戻りですか」
 残念そうな口調で言われて嬉しかったが、竜吉公主は少し意地悪く呂望の言葉を訂正した。
「呼び捨てにしろというに。ほら、言ってみよ」
「え、えっと…公主」
 実に緊張した顔でそう言った呂望に、竜吉公主は軽く頷いた。
「―――呂望」
 鈴を転がすような声が呼ぶ。青い仙女は、それこそ全山の花を萎れさせるほどの微笑を浮かべて、若い道士を見やった。その視線にわずかに無邪気な色が含まれる、ただそれだけで少女めいていきいきとして、彼女は更に美しかった。
「今度からは、おぬしが来たときは私が出迎えることにしよう」
「えっ…」
 どぎまぎする心臓を抱えた呂望は、言葉の意味を取り損ねて竜吉公主の顔を見直した。それに答えるようにもう一度笑うと、竜吉公主は優美に身を翻した。
「また来るといい。ではな」
 青い影が通り過ぎていく。呂望は一瞬追おうと足を踏み出し、そして止めた。わずかに振りかえった彼女がいたずらっぽく笑う。美しくかたどられた唇が「楽しみにしている」と音をなさずに語り、ひどく印象的なまなざしとともに呂望の心を捉えた。



「あー、いいもの見たなあ」
 声が頭の上から降ってきて、ぼんやりしていた呂望はびくっとして振り返った。おだやかな、けれどどこか飄々とした声音は旧知のものだ。
「太乙!?」
「お、呼び捨てにできるようになったね。えらいえらい」
 どこに隠れていたものか、長身の青年はにこやかに呂望を見下ろして立っている。
「なんでここに?」
「うん、ちょっと用事でね。それにしてもびっくりしたな。いつのまに彼女と知り合いになってたの?」
「今日が初対面です」
「へええ」
 大袈裟に驚いて、太乙は目を丸くしてみせた。彼ははるかに以前から竜吉公主を見知っているが、あんな柔らかい笑みを見たことはない。
「私はおこぼれに預かったってことかな?」
「…?」
 首をかしげる呂望の表情が可笑しくて、太乙はまた笑った。
「呂望は運が良いよ。崑崙一の美女に、こんなに早く逢えたんだから」
「え、ええ?」
「彼女はあまり体が丈夫じゃないから、めったに外出しないんだ。尋ねて会えれば運がいい」
 あこがれの的なんだよ、と太乙はまじめくさって解説した。そもそも彼女は天人だったのだが、あまりの美貌が天人の修行の邪魔になるとされて仙人界へ追いやられたのだという。呂望は少し疑わしげな声を出した。
「それって、その天人の方を追放するべきなんじゃないですか?」
「あれれ、丁寧語は抜けてないねえ」
「太乙!」
 茶化されたと思って呂望は眉を逆立てたが、太乙は彼なりにまじめだった。
「ああ、ごめんごめん。まあ、惑わされた方の天人の数が多すぎたんだろうね。それに、追放してくれてこっちはラッキーだったよ。目の保養になるからね」
 彼女は実際美人だから、と美術品を鑑賞するかの様な声で告げられ、呂望は少しあきれたような顔をした。
「なんだか、顔だけみたいな言い方だね」
「他はよく知らないからねえ。でも呂望だって、綺麗だと思うだろう?」
 しれっと問われて、呂望は一気に耳まで赤くなった。太乙がその反応を楽しんでいるとはわかっていない。
「そ、それは…そうだけど。僕は道士なんだから―――」
「そんなこと気にしてるの?」
 太乙は首をかしげて、呂望の言葉を遮った。
「仙道だって一応は人間だからね。花とか自然とかを綺麗だと思うのは、別に悪いことじゃないだろう? それと同じさ。相手が人だからって、特別に綺麗だと思っちゃいけない訳じゃないよ」
 瞬きを繰り返し、呂望は言われた言葉を反芻した。仙人とは崇高・孤高の存在で、誰かに惑わされる様なことは許されないと思っていたのだ。だが目の前にいる青年は、彼のそんな考えを軽い言葉で壊してしまう。
「呂望もね。綺麗なものは綺麗だし、好きなものは好きで良いんだよ?」
「す、好きって」
 今度こそ言葉に詰まる。太乙が一生懸命に真剣な顔を作っているのを見破るには、呂望はまだ幼すぎた。抗議しようと思っても、頭の回転が思い通りにならない。
「そんなの、違うよ。全然」
「もちろん、そうじゃないならそうじゃないで良いからね」
 軽くいなした声にからかいが含まれていた。言葉の先を見越して切り返す、その口調にようやくむっとして呂望は太乙をにらむ。にらまれた方はますます面白がっていたが、それを口にするのはやめた。この少年がへそを曲げると結構長引くのは、この短期間でもわかっていたからだ。
「ほらほら、そんな顔しないで。私と一緒に帰ろうよ」
「…でも僕は、白鶴が来るのを待ってますので」
 にわかに丁寧語に戻ってしまったあたり、呂望はまだ修行が足りない。喉の奥で笑うと、太乙は自分では目を向けないようにしながら下方を指差した。岩棚の隙間に黄巾力士がうずくまっている。
「これが私の用事さ。白鶴が来られなくなったから、代理だよ」
「…先に言ってください」
 がっくりしながら言う呂望の表情を、太乙は好ましげに見やった。呂望が太乙に初めて見せた気負わぬ顔の数々。先ほどの公主の笑顔と重ねて少しだけ頷く。
「公主に感謝すべき、だな」
 太乙は小さくつぶやいて、年少の道友のために、また孤高の佳人のために、二人の出会いを喜んだ。


―――End 99/01/01




「いばらの道でもいばらが生えてるだけまし」と開き直って、行きます竜吉さま×望ちゃん。
この当時はまだ「十二仙」がいなかったよーな気がしますが(普賢さんがいないもんね)、とりあえず無視すべし。
…太公望の性格が違う。でもこれは呂望だからね。ねったらね。
太乙が締めに来るのは…なぜだろう。
でもこの人、善人に設定するととても書きやすい…。



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