彼の事情





 音井信之介教授が、とあるプロジェクトの計画を実行を決意したのは、クリス制作のロボットエプシロンが暴走した直後のこと。
 その少し前、教授が立案・設計し、信彦とクリスが実行した<A−S>シグナルのバグ殲滅作戦が失敗した。二人がやりなおしを拒んだため、再度の実行はなかった。これはもはや「ちび化」をバグではなく、MIRAの特性とみなしてあきらめるべきかと考え始めた矢先に起こった、シグナルのバージョンチェンジ。MIRAの謎をますます深めたこの事件は、教授に一つの懸念を抱かせるに至った。
 もしいつかMIRAのフルパワーを出力しなくてはならないような事態が発生したとき―――そんなことが容易に起こるはずがないとも思ったが―――シグナルに使いこなすことができるだろうか?
 いくつかの条件を検討し、得た答えは否。将来はわからないが、今の段階の彼には無理だ。教授にも制御できないMIRAのデータバンクはほとんどが空いたままだ。問題となるのはハードウエアの未知数と、それによるソフトウエアへの影響の不明。この件に関して、シグナルに欠けているのは蓄積されたデータ、すなわち経験だ。もちろん、通常ならば時間が解決してくれることだが、もしその「時間」が待たなかったら? 万が一シグナルが暴走したら、それを止めるてだては今のところない。
 現段階では、ちびの状態のほうがボディ制御に関しては安定しているという、教授にとっては情けないデータも出ていたりする。ハードの出力が押さえられた状態になるためである。<A−P>パルスとの喧嘩のおかげで、大きいシグナルの運動能力も格段に上がってはいるのだが…。
 サポートが必要だった。MIRAをも制御できる経験と能力を持った、強力なサポートが。
 ため息を吐きつつ旅行かばんを抱え、降り立ったシンガポールの空港。実は最大の難関はここからだ。タクシーの中で書類を見直しながら、これから起こる騒動を考えて頭痛がする思いだった。
 行き先はカシオペア博士の邸宅。すでに博士には話を通してある。
「難しいかもしれませんよ」
 研究室に教授を案内しながら、カシオペア博士は苦笑混じりにそう告げた。
「はあ、覚悟の上です」
 これまた苦笑で答えて、教授はそれでもドアの前で深呼吸した。彼にとってただ一人、会話に覚悟のいるロボットにこれから会うのである。
 主の性格そのままに整えられた研究室は、引退したとは言え一級の設備を保持している。その一角にあるCGプロジェクターの上に、今回の最大の目的である人物が姿を現した。思わず音井教授の腰が引ける。シンクタンクの教授たちすべての手を焼かせた性格の持ち主、<A−C>コードは、見事なまでに立腹した表情で教授をにらみおろしていた。
「コード、プロジェクトの概要には目を通してもらえたかしら?」
「……………………」
 額に青筋まで浮かべて、コードはそれでもうなずいた。とりあえずカシオペア博士には素直な彼である。音井教授には剣呑な視線を投げて、ふんぞり返って腕を組んだ。CGと感情プログラムとの見事な調和は、彼の表情にリアリティあふれるすごみを与えている。
「―――要するに、音井教授の新米ロボットがバグっていて。自分で自分の制御も満足にできないで。他人に頼るよりほかになくなった、と。まあそれはわかった」
 ぐさぐさぐさ、と音井教授が硬直するのを意に介さず、コードは怒声を思いっきり浴びせかけた。
「わかったが、なんで俺様が、鳥なんぞになってまで、そいつを助けてやらねばならんのだ!」
「落ち着いて頂戴、コード」
 おだやかな、あくまでもおだやかなカシオペア博士の声が、プロジェクター越しに電脳空間を満たした。そこにはコードの妹、<A−E>エモーションが待機して、面白がってなりゆきを見物している。二人同時にCGを作ると演算が遅くなるので、彼女は姿を現していないが、「兄」の新しいボディに興味津々なのだった。
「あー、コード。先に仕様書に書いたとおり―――」
「いちいち繰り返されんでもわかってる!」
 その態度をカシオペア博士が小声でたしなめる。コードはそれでも怒気を治めなかったが、音井教授は怯まず先を続けた。
「シグナルというより、シグナルに使っているMIRAに問題があるんじゃ。いまのところ、MIRAを使った機体はシグナルだけじゃ。暴走を食い止める手段はないし、最高の状態でフルパワーを出せる保証もない。そこで、他のロボットプログラムと融合させてバランスをとる」
「とれるのか」
 口を挟んだのは確認ではなく皮肉である。
「まあ、現段階での計算上はな。…で、いかにMIRAでも、ヒューマンフォームロボット同士を融合させることは難しい。それで他のプロジェクトで開発中のロボットから、電脳とMIRAの相性と、それから機動性を考え合わせて鳥型を選んだんじゃ。加えて、シグナルのサポートという面から考えると、新規にロボットプログラムを組んだのでは役に立たない。長く経験を積んだプログラムが必要なんじゃ」
「わかってると言ってる」
「ヒューマンフォームロボット用のプログラムを、人以外のボディに入れることの不安もあるが、おまえさんなら多分クリアできると思っとる。どうかね」
 これはお世辞ではない。ストレスに類する感情に対して、コードは現在稼働中のロボットプログラムのうちでもっとも強かった。これはみのるの太鼓判がついている。
 このあたりの事情はコードもすべて把握していた。実のところ、彼は別に怒っているわけではない。鳥型にいささか抵抗はあるが、オラクルの中にあるMIRAの機密が閲覧自由となって、この金属に対しては興味がある。ただ博士たちには内密の事件がひとつあって、それが今回のプロジェクトの対象となっているロボットにからんでいたため、なんだか後ろ暗いだけなのだ。
「コード」
 呼びかけられて、コードは体ごとカシオペア博士に向き直った。
「どうかしら。現実世界でも、少し経験を積んでみる気はない?」
 カシオペア博士の静かな声は、いつもコードを落ち着かせる。他の者に言われたら不愉快になる諭すような響きも、博士が相手だと気にならない。
「今の私たちは、あなたにヒューマンフォームのボディをあげることは出来ないわ。けれど電脳空間の中だけでなく、現実空間で経験を積むことは、あなたにはとても有意義なことだと思うの。音井君から話があって、私が賛成したのはそのためよ」
 コードは別に今更ボディは欲しくはない。だが、感情プログラミングのプロトタイプとして作られたエモーションと異なり、彼は大前提として現実空間に生きるはずの者だった。それが人間の能力不足で不可能になったと、カシオペア博士が気に病んでいたことをコードは良く知っている。それに音井教授も、決して敬っているわけではないが、一流のロボット工学者として一目置いているのは確かだ。
 コードはむくれてだまりこんだ。
「もちろん、おまえさん次第じゃよ、コード。わしも無茶は承知しとる」
「―――もう少し考えさせろ」
 あくまで尊大な命令形を投げつけて、呼び止める間もあらばこそ、コードはふっと姿を消した。
 やれやれ、と音井教授が息をついていると、程なくまたプロジェクターがうなった。兄と入れ替わるようにエモーションが現れる。
「<A−E>EMOTION:Elemental Electro-Elektraが参りました。ごきげんよう、音井教授」
 長い名乗りと深いお辞儀は、彼女のいつもの挨拶だ。優雅で人懐こい笑顔を向けられて、「兄妹」でどうしてここまで性格が違うかと、音井教授はため息を吐きたい気分になった。
「エモーション、コードはまだそこに?」
「いいえ、あっという間に出ていってしまわれましたわ。多分オラクル様のところだと思います」
「オラクルの?」
「ええ、先日音井教授のプロジェクトの打診があってから、珍しくこもりきりでしたわ。お兄様、だいぶおかんむりのようでしたけれど」
 くすくす、と軽やかな笑い声をたてて、カシオペア家のご令嬢は軽く髪をゆらす。
「大丈夫ですわ、音井教授。コード兄様は、ボディのことで不機嫌な訳ではありませんの」
「ほお。それじゃ、何が気に入らないのかな」
「ごめんなさい、内緒ですのよ。でもお兄様はきっと承知なさいますわ。私が保証します」
「だと助かるんだがのお」
「大丈夫、奥の手があるんですのよ」
 苦笑いする音井教授とカシオペア博士に優雅に頭を下げると、エモーションはすぐに姿を消した。もちろんコードの後を追い、<ORACLE>に向かうためである。



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