ひとつの夜
<1>
―――ATRANDOM―――





 海面にたたきつけられる間際、彼女の手から爆弾をもぎ取ったことは覚えている。
 MIRAを変化させて爆発をいくらかでも緩和できていたら、と思い付いたのは後のことだ。右腕に走る灼熱が、回路から意識と呼べるものを奪い去ったとき、頭にあった思いは一つだけ。彼の左腕にしがみついて、それでも爆弾を取り返そうとしていたユーロパのこと。
 やっと彼女に触れることができるようになったのに、と少しだけ場違いなことを考えた。


「…聞いてる? アトランダム」
 研究室の隅の床に座り込んだまま動かないアトランダムの顔をみのるが覗き込んだ。薄い色彩の瞳はそれでも動かず、みのるを突き抜けて調整台の上のユーロパを見つめている。
 クリスが通り過ぎざま、自分が怪我をしたかのように痛そうに顔をしかめる。彼の半身はまだぼろぼろのままだ。アトランダムはここまで、骨折と裂傷を抱えたに等しい足で自力で歩いたのだ。正信でさえ修理しろと言ったのだが、彼はがんとしてそこから動こうとしなかった。
 コードと「音井ブランド」の面々は、トッカリタウンに戻ってから本格的な調整とデータ収集をすることになっているため、今夜は簡単なチェックだけで解放された。しかし冬眠モードのカルマ、回路封鎖を起こしたユーロパは、ソフトウエアの保守点検が最優先で必要だった。カシオペア博士はユーロパにかかりきり、音井教授もカルマの調整表とにらみ合いをしている。
 正信は骨折が元で発熱してしまい、みのるに絶対安静を言い付けられてしぶしぶ部屋に戻った。代わってコンスタンスとクリス、エララが手伝いに入っている。オラトリオとラヴェンダーは、リュケイオンのシステム確認に追われて、研究室とコントロールルームを行ったり来たりしていた。研究室はかなりごったがえした状態だが、アトランダムはそれもすべて目に入らないらしかった。まるで彼が見ていなければ、ユーロパが消えてしまうかもしれないというように。
「アトランダム、応急修理だけでもしておかないと。そんなボロボロのままじゃ、ユーロパが目を覚ましたらすごく心配するわよ」
「……」
 ユーロパの名前が出て、初めてアトランダムの視線が動いた。
「―――必要ない」
「でも、アトランダム」
「いらん」
 取りつくしまもなく言い捨てる。すさまじいまでの警戒心がその目に宿っているのを感じ、みのるはため息を吐きたい思いにかられた。それでも返事をしてくれただけましかもしれない。彼の警戒が向いているのは人間たち―――ロボットを機械として扱う者。みのるも確かにそのうちの一人であるから。
 みのるはひとまずあきらめることにして、見える範囲の故障個所の状態をざっと目だけで確認した。いくらか期待はあったが、やはりMIRAの特性をもってしても自動的に治癒できるものではない。
 クリスがパソコンのディスプレイに向かい、流れ出すデータを上から順に読み上げた。その内容は工学知識の無いアトランダムには理解できない。カシオペア博士は手にしたボードに視線を走らせていたが、クリスが最後のデータを読み終えると、そばについていたエララとしっかりとうなずきあった。
「アトランダム」
 呼ばれてはじかれたように視線をあげ、アトランダムは立ち上がった。見上げる長身の歩みは不安定だ。みのるの目の高さにある腕の断裂面から、ケーブルが数本ばらりと落ちる。人間だったらスプラッタだと、思わずそちらに目を向けたクリスとコンスタンスは同時に考えた。
「状況を説明します。大丈夫、ユーロパは無事よ。多少は調整が必要ですけれどね」
 カシオペア博士は調整台をゆっくりと回り、アトランダムにボード上の書類を示した。彼の眼光に満ちていた警戒がふと緩んだ。カシオペア博士のおだやかな視線は誰の心も溶かす。アトランダムも例外ではないらしかった。
「人間で言えば頭蓋骨にあたる電脳の保護システムがあるのだけれど、ユーロパは現在これで回路を封鎖しているの。気絶した状態とでも言えば良いかしら? 電脳の損傷は見つかっていないから、外部からの衝撃が基準値以下になったことが確認されれば、封鎖が解除されて目を覚ますわ。あとの損傷は擦り傷くらいのものよ」
 紙の上の数字が示すユーロパの状態を具体的に説明されると、目に見えてアトランダムの体から力が抜けた。数字と説明の双方に説得力があった。隣のあいている調整台に座るよう薦め、カシオペア博士はにっこりと笑った。
「それにしても、海に飛び込むなんてねえ。おてんばでしょうがないこと」
 まったくね、とみのるが相づちをうち、目の端に安堵の涙を滲ませたエララがつられて笑う。ユーロパは彼女たちの思い出をほとんどアトランダムに語らなかった。何かの拍子に話題に出ても、つらそうに顔を伏せるだけ―――そう、とても悲しそうに。だから今に至っても、アトランダムは彼女たちに良い感情を持てなかった。ユーロパに向けられる、優しく親愛の情に満ちた視線を知った今でも。
 カルマのことにしてもそうだ。彼の今の事態を招いたのが自分のためだとわかっていても、それでも謝罪の気持ちなどはまだ起こらない。長い時間身を沈め続けてきたあの闇、わずかながら信用していた人間に裏切られた瞬間、そして海の中で動かないユーロパに気づいたときの嘆きを思うたび、彼の思考は麻痺してしまう。
 はやくユーロパに目を覚ましてほしい。目覚めた彼女から本当の話を聞きたい。製作者と姉妹たちと過ごした、きっと穏やかであっただろう日々のことを。
 そうすれば、歩き出せるかもしれない―――そうでなければ、歩き出せない。今のアトランダムには、彼女の言葉しか信じられなかったから。
 アトランダムは視線をユーロパに向けた。頬にこげた跡があるが、火傷にはなっていない。人間と確実に異なるその肌は、それでも人間めいて白く澄み、アトランダムに違和感を覚えさせる。だがその違和感に、どことなく安心も感じた。
 その汚れを取ろうと、ふと動した腕からケーブルが零れた。無残な焦げあとを示してちぎれた束は、ユーロパに触れることなく、かろうじて残った腕にからみついた。





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