ひとつの夜
<2>
―――EUROPA―――





 衝撃は少し離れたところから来た。海水が髪にもつれ、頭の奥の方でぎりぎりと音がする。自らの安全回路が封鎖されるのだと気づいたとき、ユーロパの意識にはアトランダムのことしかなった。
(助かるはずだったのに)
 嘆きと軽い悔悟。他の手段はなかったかと。それでもアトランダムの手が背に回されていることを感じて、わずかに安堵する。
 瞬間的に沸騰する海水。それきりユーロパの回路は外からの情報を捉えなくなった。


 目覚めはいつも唐突だ。再起動のたびにそう思う。目を閉じて開けた、ただそれだけで時間が過ぎている。
 環境チェック終了、回路の封鎖が解かれる。体内の時計の確認。あれから十六時間…あれから?
 よみがえった記憶に急かされて瞼を開ける。視覚情報、見知らぬ部屋…人が四人、ロボットが二人。ロボットの一人、カルマは離れた調整台の上だ。自分も寝椅子型の調整台の上に寝かされている。
「ユーロパ! 気分はどう?」
 エララが調整台に飛びつくようにしてたずねた。
「姉様…みのるさんも」
 ゆっくりと起き上がるユーロパの傍らで、みのると音井教授、キム博士、そしてとても懐かしい顔が見守っている。
「おばあさま!」
 目尻の皺は記憶より深く刻まれているが、その微笑は相変わらずだ。跳ね起きた娘の肩に添える手も優しい。
「おばあさま、どうして」
「私は今日の夕方、こちらに来たのよ。音井くんから事情を聞いてね」
 無事なあなたに会えて良かったわ、とカシオペア博士は笑った。よく知っているその表情に、ユーロパは涙が滲むのを感じてあわててうつむいた。その記憶、「相変わらず」と思う懐かしい感情は、昨日まで彼女の奥底に封じられて忘れ果てていたもの。
 重なる記憶の不整合はまだ彼女の脳裏に残る。だが、今目の前にある笑顔たちの説得力は何にも勝って強い。
「彼のおかげね」
 カシオペア博士は目線を調整台の背後、ユーロパからは死角になる場所に向けた。アトランダムが長身を傾げるようにそこに立っている。
「アトランダムがあなたを助けてくれたのよ。覚えているでしょう?」
「ええ、もちろん」
 喜んで振り返ったユーロパの目が見開かれる。アトランダムは表情と言葉の選択に困って彼女を見下ろしていたが、ユーロパの視線はぼろぼろになった彼の腕と足に注がれた。
「アトランダム、その怪我…」
「…たいしたことはない」
「馬鹿なこと言わないで! どうして修理しないの!?」
「……それは」
 ユーロパは跳ねるように体を翻し音井教授を見た。彼女の考えが悪い方向へ向かって行くのがわかり、アトランダムは内心で焦った。以前のようにアトランダムが封印されるのではないかという懸念が、彼女の視線に現れている。
 アトランダムを見ながら、だから言ったのに、とみのるが苦笑した。切羽つまった顔で振り返ったユーロパに、笑いながらドアの方を指差してみせる。
「今クリスちゃんが、MIRAの材料を取りに行ってくれてるの。一度地下まで降りないといけないから、ちょっと時間がかかるけど」
「えっ…」
「もう封印はせんよ、ユーロパ」
 音井教授も苦笑まじりに宣言する。彼は前回アトランダムを封印した責任者だ。その本人が言うのだから間違いないと、とたんに安堵した表情を見せたユーロパに、コンスタンスがいたずらっぽく声をかける。
「第一、あなたの命の恩人を封印するなんて、カシオペア博士がお許しにならないわ」
 カルマの調整台に戻りながら、コンスタンスは目で笑ってアトランダムを見た。エララが熱心に頷いてその言葉を肯定する。アトランダムはと言えば、まるで慣れない場の雰囲気に、ひどく戸惑って立ち尽くしていた。
 にぎやかに笑み交わされる視線も、裏のない会話もアトランダムは知らない。傍らにいるユーロパは、すでにそこに馴染んでいるが、自分はそぐわないように感じて落ち着かなかった。
 だが、少しだけ安心したことも確かだ。彼の懸念は良い方向に外れた。元の家族たちを見返すユーロパの瞳は、信頼と安堵で満ちている。
「ユーロパ、ロボット工学の勉強をしたんですって?」
 カシオペア博士がたずねると、ユーロパは頷いて、少しだけ表情を暗くした。彼女がそれを学んだ理由は、過去を忘れるためだった―――偽りの過去を。まだ少し記憶に不整合があるが、クエーサーに引き取られた後のこと、悲しみの感情から自分が選び取ってきた道は、克明に覚えている。
 あえて言葉を励ますようにカシオペア博士は続けた。
「それでさっき、少し相談したのだけれど。アトランダムをあなたに治してもらおうと思っているのよ」
「ええっ!?」
 思いもよらなかったことを告げられ、ユーロパは目を丸くした。アトランダムを振り仰ぐと、彼はわずかに頷いた。
 ユーロパの電脳が環境チェックを開始したとき、みのるが提案したのである。アトランダムが修理を拒むのは、人間が信用できず、修理と称して彼を封印するのではないかという懸念が拭い切れないからだ。現在の彼のボディはMIRA製で、クエーサーを除けば修理できるのは音井教授くらいのものだ。だがアトランダムは、とにかく音井教授と正信に触れられるのはまっぴらだと思っている。
 本人はここまで口にしなかったが、みのるもカシオペア博士もその点は承知していた。ならばユーロパにまかせたらどうかと、提案したほうもされたほうも、この手段があったことにほっとしたものである。だがユーロパは却って不安になってしまった。
「私、MIRAを扱えないわ。アトランダムのボディの基本部分はクエーサー博士の製作だし、私は指示されたとおりにしただけだから…」
「大丈夫よ、そこはエララが補助をしてくれるわ。どうかしら?」
「…アトランダムはそれで良いの?」
 不安げな面持ちで問われて、アトランダムはもう一度うなずいた。
「それが良い」
 きっぱりと言われて、ユーロパはやっと心底からの笑顔を見せた。エララとみのるが顔を見合わせて微笑し合う。ことにエララは、妹と再会を果たして一日しかたっていないが、もうずいぶん長い間、怒りと悲しみの表情しか見ていなかったような気がする。
 ユーロパの不安、あの目を覆いたくなる記憶は、すべて払拭されたわけではない。後から植え込まれた感情は生々しく残り、それが嘘だとわかっているのに、また悲しみを呼び起こす。けれど今、ここで彼女を囲む笑顔は、無類の説得力を持っていた。そして、肩に添えられているアトランダムの手。
 自分は大丈夫だとユーロパは確信する。そして、アトランダムもそうであれば良いと、そのぼろぼろの傷口を見ながら願った。





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