ひとつの夜
<3>
―――Chris―――





 本当に治すのか、と黒髪のロボットは無表情に尋ねる。
 心配なら心配そうな顔をしてみせなさいよね、とクリスが言うと、別に心配はしていないが、と予想通りの言葉が戻る。
 いつもなら気にもかけない、こんなやりとりすら貴重に思えるほど、緊張と緊迫の連続だった今日。空に闇が落ちた今になって疲れをどっと感じるが、クリスは持ち前の意地っ張りで助手を務めとおした。この資材運搬で今日の仕事は終わる。教授たちはまだまだチェックが続くが、クリスは一日動き詰めで疲れているだろうと、みのるが助手を代わってくれた。
 何より少し、アトランダムたちの側には居辛い。
 荷物持ちを手伝えと言ったら素直に応じてくれたのは、ひょっとしてパルスなりの気遣いだろうかとふと思った。


 研究室のドアは音も無く開いた。やっと着いたかと、山のように資材を持たされていたパルスがほっと息をつく。
「お待たせしました。あ、ユーロパ、もう起きてたのね」
「クリス! 起きてたのねじゃないでしょう。こんなに時間かけて何してたの」
 いきなり小言で迎えられ、クリスは少しむくれた。
「だってお姉様、シグナルがアトランダムを気にして駄々こねて大変だったのよ」
「シグナルが?」
 アトランダムが驚いたように目を見開く。クリスは資材をパルスの手から調整台の上に移しながら答えた。
「そ。パルスを荷物持ちにしようと思って部屋まで行ったら、ちびから元に戻ってて。二人が見つかったのを覚えてないから、心配してうるさいのなんの」
「心配…」
 耳にした単語が一瞬理解できず、アトランダムは繰り返した。だがクリスはあっさりとうなずく。
「でしょう、あれは」
 話を振られて、パルスも深々と同意した。
「信彦とマリエルと三人がかりでうるさい。若先生はもう休んでいるし、雷電の言うことも聞かん。せめて見た目だけでもさっさと修理しないことには、寝付かなさそうだ」
「あらあら、大変」
 まるで大変そうではない顔でみのるが言った。クリスは資材の一覧をチェックする手を止め、肩を竦めてエララに視線を向ける。彼女が修理を手伝うと聞いて、シグナルはいっそううるさくなったのだ。
 アトランダムは信彦の名を聞いて、更に腑に落ちない顔つきになった。昼間アトランダムに襲われかけ、あれほど怖がっていたというのに、人間の子供はわからない。
 自分が今アトランダムと会話していたことに思い至って、クリスはちょっと不思議な気分になった。彼はさっきまでは頑なに床に座り込んでいたのに、これはユーロパの効果だろうか。
「ユーロパ、先に一応記憶領域のチェックをするけれど、良いかしら?」
 不安ならアトランダムに見ていてもらいましょう、とカシオペア博士は言ってチェック表を取り出した。やはりクリスを驚いたように見ていたユーロパは、その言葉に慌てて頷いた。どれほど記憶に不整合があるのか、わからないままでは不安が残る。
 クリスはそれを聞くと、資材の一覧を急いで書き上げて音井教授に渡した。記憶領域の調整に、製作者と「身内」以外の者が立ち会う訳にはいかない。
「それじゃ、私はこれで。アトランダム、とっとと修理されちゃってね」
 励ましの言葉のつもりでそう言うと、コンスタンスの小言が追いかけてきたが、クリスは一応きちんと礼をして退室した。面食らったようなアトランダムの表情が少しおかしい。パルスもそれに続いて部屋を出た。このあとは子守りかと、珍しくぼやきながら。
 廊下は煌々と灯りがついているが、窓の外は真っ暗な海で、クリスは少し落ち着かない。並んで歩きながらちらりと見上げると、パルスの頬の傷が目に入った。
(こき使って悪かったかしら)
 ふとそんな考えが頭を過ぎった。切られた髪もブレードも、やはり修理しなくてはならないし、考えてみたら昨日から彼はほとんど休みなしである。
「パルス、もう寝ていいわよ。いい加減疲れたでしょ」
 クリスが言うと、パルスは軽く目を見張った。
「お前がそんな殊勝なことを言うとは珍しいな」
「あんた一言余計よ! こういうときは素直に休むって言いなさいよ」
 むきになって言い返しても、パルスはさらりとした表情で受け流してしまう。
「別にまだ眠くない。そういうお前は休まないのか」
「…そおねー。マリエルと信彦が寝たら寝るわ」
 姉様がうるさいから、と言い訳しながら、クリスはパルスの先に立って歩いた。いろいろな感情が頭をめぐっていて、眠れそうにないというのが実際のところなのだが。
 研究室から宿泊施設までさしたる距離ではないが、この間の廊下もホールも結構派手に壊れている。水面下のブロックでは、アトランダムの爆弾の影響で耐圧ガラスにひびが入り、何個所かシャッターが下ろされた。緊急時の各フロア切断システムは、先ほどオラトリオの尽力で解除されたが、それまでは連絡回廊まで大きく迂回して移動することを余儀なくされていた。ちなみにエレベータも止まっている。資材の運搬とソフトウエアの確認作業などで、フロア三つ分の上り下りを十往復もやらされたクリスは、何日分のダイエットだろうとくらくらする頭で考えた。
「…私が見ていてやってもいいぞ」
「は?」
「信彦とマリエルのことだ。雷電もいるし、お前はいてもいなくても同じだろう」
「わるかったわねえええっ」
 珍しく気を遣ってるのに、とクリスはむっとした。パルスの方でも気遣ってくれているのは一応わかるのだが、もう少し言い方があるのではなかろうか。
 振り返ってにらんでもパルスに効き目はない。冗談めかしてため息をついて、後ろ向きのまま二−三歩歩く。
「まあ、あんたに期待するだけ無駄よね」
「何の話だ…っと、クリス!」
「え、…きゃあ!?」
 体が傾くのと、パルスが腕をつかむのが同時だった。床に転がる大小のガラス片。そのうちの一つを踏みつけたのだと、体勢が戻ってから悟る。
「自分の足元を良く見ろと、昼間言ったばかりだろう」
「…ってあんたねえ、ここってあんたが壊したところでしょ!?」
 ばくばく鳴る心臓の音のままクリスは怒鳴った。大きく切り取られたガラス窓は、昼間マリエルを探しにでたパルスとシグナルが、近道するために切り裂いたのだ。切断面をさらしてはまっていたガラスはきちんと割り尽くし、そこは空っぽの空間になっていたが、床は掃除しきれていない。転んだらしゃれにならないのは確実だ。
「壊れているとわかっているのだから注意しろ」
「あんたねえっ、そういう言葉と反省が足りないところ直しなさいよっ。ユーロパの方がよっぽど素直だわ」
 捕まれたままだった手を振り払って、クリスは前を向いてずんずん歩き始めた。
「反省が足りないというならお前もだろう、クリス」
「しっつれいねえ、今回あたしが何を反省する必要があるっていうのよっ」
「今回はないな。確かに今回は」
 後から同じスピードで着いてきながら、パルスは淡々とクリスの神経を逆なでする。
「だったらいちいちうるさいこと言わないで」
 いつもどおりの勝ち気な口調でクリスは言い返し、それきりふいと口をつぐんだ。
 ここはコンピュータ制御の海上都市だ。トッカリタウンののんきな研究所でも、大きいばかりで味気ないアメリカの実家でもない。割れたガラスやひびの入った壁は、間違いなく非日常で、すべて終わった今でも実感としてわからず、どこかクリスの感覚を上滑りしていく。なのにパルスの態度はいつもと同じで、ちゃんと言い争いができる自分がそこにいる。
 混在する日常と非日常が奇妙なのだ。だから落ち着かない。
 宿泊施設に至る廊下の分岐点まで来て、今度はちゃんと足元を確認し、クリスはくるっと振り返った。
「も、あったま来た。パルス、あんたまだ眠くないって言ったわね?」
「…言ったが」
「じゃ、ガキども頼んだわ」
 クリスは部屋と逆方向に足を向けた。そちらは現在使用している施設が何も無いので、証明が落とされて暗くなっている。
「おい、どこへ行く」
 わけがわからず声をかけるパルスを置き去りにして、クリスはひらひらと手を振った。
「てんぼーだい。まだ行ってなかったんだもの」
 昼間、アトランダムとユーロパが墜落した場所である。出発前、「周り中海だから星がきれいよ」などとみのるが話していて、ちょっと楽しみにしていたのだが、事件のおかげでそれどころではなかった。もう明日にはここを離れるだろうから、今のうちに見ておこうとふと思い付いたのだ。
「……」
 しかたない、とパルスが軽く息をついた。
「何よ、ほっといていいわよ」
「こちらも結構壊れているからな」
「あんたたちがこぞって壊したんでしょうが。それに何よ、また転ぶとでも言いたいの!?」
「よくわかったな」
 昼間の緊張が残っているせいか、星明かりだけの暗い廊下は少し怖い。けれど後ろから着いてくる、クリスに歩調を合わせた足音と、いつもの憎まれ口のおかげでとても安心した。ただ、それを認めるのはとても癪だったけれど。
 振り返らないままの会話は、展望台にたどり着くまで続いた。




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