未来からの約束





 とある、比較的平和な日。シャーカーンを追放し、放浪の王子も正式に帰還して、アヴェの王都ブレイダブリクは久々の自由に涌きかえっていた。ユグドラシルの乗員一行も賓客としてファティマ城に迎えられ、しばしの休息を楽しんでいる。
 だが、精神的余裕を持ちきれない若干名もいて。ニサンから大教母が来訪したその午後に、城の一郭で、派手な喧嘩をやらかしたカップル―――になっていないが―――があった。
「ビリーさんなんか、大っきらい!」
 中庭に面した回廊に高い声が響く。たまたま通りがかったバルトとマルーの目の前を、その声の主、マリアが走り抜けて行った。
 銀の巻き毛の少女がこんなに激昂したところも、挨拶を忘れたところも見たことが無くて、二人は声もかけられずにその背中を見送った。後に取り残されてやや呆然としていた少年は、その姿を見て我に返ったらしい。苦笑を浮かべ、軽く手を上げて挨拶してきた。
「やあ。…変なとこ、見られちゃったね」
「…あー、わりい」
「謝ることはないでしょ」
 喧嘩の理由がまるでわからないので、いつもならここぞとばかりにビリーをからかうバルトも言葉に詰まっている。二人に揃って困ったように見つめられ、ビリーは少しだけ可笑しそうな顔で笑った。いつもどおりの平静さを保っているように見えたが、会話もそこそこに回廊を立ち去る足元がどこか頼りなかった。
「だ、大丈夫かな」
 比喩でなくよろけているビリーを見てマルーがつぶやいた。ビリーがマリアを何かと気にかけているのは二人とも知っている。先ほどマリアが消えたのと同じ廊下へ向かう少年を見送りながら、バルトも珍しく気の毒そうな表情になっていた。
「あーあ…あの攻撃は効くからなあ」
「え? 何それ」
 問われて、バルトは隻眼を細めて従妹を見やった。どことなく照れたような色が碧玉に宿る。
「……覚えてねえか?」
 マルーは見上げる両目を瞬きした。まず言葉の意味が分からない。きょとんとしたその様子に、バルトは先ほどのビリーと似た苦笑を浮かべた。
「ならいいさ、別に」
「待って若、よくないよ。何のこと?」
「いいって」
「よくない」
 アンドヴァリ奪取戦でマルーが負った怪我はまだ完治していない。そのため、ごまかして立ち去るという手段が今のバルトには使えなかった―――急いで追ってこられて、傷を悪化させると困る。またちらりと苦笑を見せて、バルトは軽く上を向いた。
「俺にも、今のビリーの気持ちがわかるってことさ」
「…?」
 マルーはまた首をかしげた。
 大嫌い、という言葉。足元のおぼつかないビリー。一瞬、記憶の中の風景が重なった。
 マルーは小さく手を打ちあわせた。
「そう言えば。…大嫌いって、昔ボクも言ったことがあったね。若に」
「…………覚えてるならさっさと思い出せっ!」
 そっぽを向いた怒鳴り声に、少しだけマルーはむくれた。
「今は、若が何言ってるのかわからなかっただけだもん。忘れたことなんかないよ」
「…そうか?」
 バルトは一瞬笑うと、マルーの帽子を乱暴に押さえて目隠ししてしまった。それが照れ隠しだと知っているマルーは、いたずらな笑い声を立てて帽子の主導権を取り返す。
 嫌い、という言葉を、ただ一度この人に使った。それは幼い日の記憶。


 アヴェ王家滅亡の報が世界を巡って三年。ニサンはこのほど、シャーカーンの手の内という枷付きではあったが、独立を取り戻した。アヴェと近い存在でありながら、異なる精神的風土をもった宗教都市。シャーカーンもその統治の難を知り、またソラリスの影にあっては力任せの侵略もできなかったため、形ばかりの自治を認めることにしたのである。
 シャーカーンにとって誤算だったのは、傀儡を立てて教団も意のままにするという計画が実行できなくなったことである。留守居役としてニサンを預かっていたシスターアグネスが、先手を打って実の大教母であるマルーが健在だと公表してしまったのだ。内密に整備された通信網で、成長したマルーの姿とともに、ニサン独立は高らかに全世界に歌い上げられた。ともかく独立を認めてしまった以上、シャーカーンには異を唱えることができない。
「大丈夫。マルー様が急な病気などにならないよう、まして事故などに遭われないよう、シャーカーンどのが気を配ってくださることでしょう」
 マルーの安全を懸念する声に対し、アグネスはこう公言してはばからなかった。これはすなわち、急病や事故はすべて何らかの陰謀と見なすと宣言したに等しい。マルーの身に何事か起これば、全てシャーカーンの責任となるということである。老陰謀家は不承不承頷かざるを得ない。マルーの身辺には、もちろんニサンからの護衛が付けられて、何重にも守る。
 「亡命中」だった大教母の帰還は、こうして適うこととなった。彼女の「亡命先」はユグドラシル、そこではアヴェの王子も健在だったが、もちろんそれが知らされることはない。表向きには、シスターの仲間が辺境の小村に匿っていたということにされた。
 ここまでの計画は、ようやく完成がなったユグドラシルのニサン地下ドックで、メイソンとシグルドが練ったものだ。砂漠と艦の暮らしからか、マルーが体調を崩して寝込んだ直後に、渡りに船の状態で来た独立の報。賭けではあったが、マルーはニサンに帰るべきだと二人は判断したのだ。
 これまで生死すら不明だったマルーが、無事にこの地に戻ると聞いて、ニサンの市民たちは湧きにわいた。この三年を耐えた人々には、久々の明るい報である。先代の大教母は誰からも慕われており、その尊崇は娘であるマルーにもそのまま向けられている。彼女の帰還を心待ちに、街は控えめながらも祝賀のムードで彩られた。
 だが、迎えられる当のマルーは、帰郷を心から喜ぶことはできなかった。それはずっと共に過ごした同士、バルトとの別れを意味したからだ。
 ニサンへと連れてこられても、マルーはまだ説得に首を縦に振らずにいた。幼い少女は全力で大人たちの意見に抵抗し、地下ドックから動こうとしない。目に涙をいっぱいに溜めた従妹の姿を、バルトは困り果てながら見下ろした。
「な、マルー。これが最後じゃないからさ」
「やだっ!」
「絶対また来るから。少しの間だけだよ」
「やだ、若と一緒に行く!」
 モニターの画面に広がっている風景は彼らの懐かしいニサン。けれどマルーはそれに目もくれず、ドックの柱にしがみついている。
 シャーカーンの魔手から救い出されてこの三年、マルーとバルトはずっと一緒だった。記憶に刻み込まれた恐怖も、互いへのいたわりも共有して、幼い心を癒し逢ってきたのだ。ニサンに戻ると知らされたとき、最初マルーは喜んだが、バルトの同行が叶わないと知って俄かに帰還を渋るようになった。
 普段は聞き分けの良い、いささか良すぎる子供だったマルーは、ここに来て初めて我を通そうとした。艦から降ろされても、出迎えのアグネスの顔を見ても、頑としてその場を離れようとしない。まだ熱の下がりきっていない体の何処にこんな力があったのかと、柱から剥がそうとして失敗したシグルドは少し感心させられた。
「ボクは若の子分なんだから。子分は親分と一緒にいるんだからっ」
「マルー…」
「ぐあいが悪いから駄目なら、ちゃんと治すから。邪魔しないから、だから一緒に行くっ」
 バルトはメイソンとアグネスを振り返ったが、二人からは困惑した表情が返って来ただけだった。ニサンの教母たるの任をわきまえ、常に子供らしからぬ分別を示しつづけてきた少女。こんな風に泣いてわがままを通そうとする姿を見るのは、二人とも初めてだったのだ。
 シグルドも少し苦しそうにマルーの姿を見ている。その隣に立って必死の説得を繰り返しているバルトの姿もまた。
 この少年にとっても、大事な従妹との別れだ。引き裂かれた家族、血の粛清を目の当たりに見て来た彼もまた、別離の感情には敏感である。増してや大人たちに囲まれ、その都合に振り回される日々にあって、何より近くにいた存在と引き離されるとあれば、悲しみは少女と同じだけ深いはずだ。
「…責務をまた、押し付けることになるのは承知の上ですが」
 泣きじゃくるマルーを見ながら、シグルドが痛切な表情でつぶやいた。
「それでも、マルー様はニサンに帰らなくてはなりません。ニサンの民のためです」
「シグ」
 バルトの咎めるような視線を受けながら、シグルドはマルーの傍らに立った。バルトとマルー、二人を守る者として、どちらも彼に絶大な信頼を寄せている。だが今回だけは、彼はマルーの望みを叶えてはくれなかった。
「あなた様のお帰りを、ニサンの人々は首を長くして待っています。…どうか、聞き分けてください」
「…だって。だって…」
 見上げてくるマルーの目を見てくじけそうになりながらも、シグルドは断固として言葉を継いだ。
「若は私たちが必ずお守りします。お約束しますから」
「だって、約束なんか」
 うまく言葉を紡ぐことが出来ず、また新しい涙がマルーの目からこぼれる。
「あ、あのときだって…約束したけど、嘘だったもん」
「マルー?」
「パパと、ママ。すぐ来るって言ったけど、来なかったもん」
 涙声は叫びのように地下ドックにこだました。
「だから、今いる人とお別れするのは、いやなの」
 右手で柱にしがみついて、マルーは左手で目をこすった。それでも涙はとどまってくれず、目尻に赤い跡が残る。
 バルトはマルーの顔を覗き込むように床に座り込んだ。彼女の気持ちが痛いほどわかって、説得の言葉などかけらも出てこない。ただ、そんな風にマルーが泣くのを見たくなくて、一生懸命に頭を撫でてやる。
 今まで、二人は涙を見せずにきた。
 親たちが殺されたと聞いたとき、従妹がいたから彼は耐えた。そのときバルトの腕の中にいて、それでも彼を守ろうとしてくれたマルーも、やはり耐えてしまったのだ―――弱い心を自分に許さずに。
 アグネスは信頼の置けるシスターだ。今日久々の対面だったが、かつて自分のそばにいてくれた女性のことは、もちろんマルーもよく覚えている。だが四歳から七歳の幼い時間の重みは、マルーをしっかりとユグドラシルに根付かせていた。ただのさよならがそのまま今生の別れとなり得る今、バルトと離れることはどうにも耐え難いことだった。
 それでも、バルトがニサンに残るわけにはいかない。シャーカーンに知られないようニサンで暮らすというのがまず無理だったし、何よりバルトにはアヴェ王家を継ぐ者として、砂漠にあらねばならない義務があった。
 救われないことに、幼いわがままを主張するただ中にあっても、それをマルーは承知してしまっている。当のバルトもまた。
 自分はバルトを困らせている、とマルーは思う。バルトに彼女を連れて行くことができないことも、彼女にも大教母という重い責務があって、今こそそれを果たさなくてはならないことも、わかってはいるのだ。だがどうしても、頭を撫でてくれるこの手を、自分と同じ色で見返してくれる瞳を、なくすのはいやだった。彼女に跪き、敬語で話す人々だけに囲まれて暮らすのはつらかった。
 シグルドが立ち尽くす横へ、戸惑ったような表情でアグネスが近づく。マルーを法皇府へ連れて行くのに、もう時間の猶予がない。
「…若」
 主君に少女の涙の下から見上げられて、それでもシグルドは頭を横に振った。一番つらい仕事を幼い少年に与えていることを思って、忠実な副官もまた身を切られるような思いにかられている。
 それでもバルトは、アヴェ君主としてみずからを任じた。困ったことに、彼はマルーより二年だけ長く生きていて、しかも彼女を守るという気持ちは誰より強かった―――今の自分にその力がないことも、承知していた。
「マルー、…子分は、親分の言うことを聞くんだ」
 一生懸命に厳しい声を作りながら、頭を撫でていた手を離してバルトは立ち上がった。今ここでマルーを説得できるのは自分だけだと、それこそ泣きたいような気持ちになりながら。
「マルーはここで、ニサンを守らなくちゃいけないんだから」
「だって、ボクはここにいるだけだよ。何もできないよ」
 こちらも一生懸命に涙をこらえながら、マルーは従兄に言い返した。正直なところ、自分たちの頭の上を飛び越して決定された取り決めのことを、二人とも正しく理解してはいない。民のため、希望の象徴として、と繰り返して言われはしたが、実際にすることは「そこにいるだけ」である。―――少なくともマルーはそう思っていた。責任だと言われてしまえば、彼女には納得するしかないのだが。
 これで説得するのは無理だと自分で思って、バルトは話の方向を変えた。
「でも、ここにいれば何かできるだろ。ユグドラにいたら、マルーにはもっと何もできないじゃないか」
「―――!」
 マルーの大きな目が丸く見張られるのを、バルトはずきずきする心臓を抱えながら見返した。自分はひどいことを言っている。思ってもいないことを言いながら、優しい従妹を悲しませている。
「だってそうだろ。今みたいにすぐ熱出すし、教母のエーテル術だって、教えられる奴がいないからうまくならないじゃないか。俺と一緒にいたって、……」
 さすがにそれ以上言えなくて、バルトは言葉を切った。見開かれたマルーの目から涙が消える。代わりに現れた静かな色、彼女の碧玉にかつて浮かんだことのない悲しみを、バルトはひどい後悔と一緒に見つめることになった。
 マルーは柱から手を離した。熱のために頼りない足元すら忘れて、バルトの顔を必死に見返す。
「若、なんか」
 堅い、堅い声がバルトの耳を突き刺す。
「若なんか、知らない。どこでも行っちゃえばいい。嫌い、大っきらいだ!」
 全身で叫んで、マルーはくるりと身を翻した。
 慌てて後を追うメイソンとアグネスを見送りながら、バルトは呆然としてそこに立ちすくんだ。どんな喧嘩をしたときでも、マルーがバルトに嫌いと言ったことはない。その言葉が耳から体中をを切り裂いていくような気がして、バルトは足を動かすことができなかった。
 マルーの足音が地下ドックから消えて、こっそり様子を窺っていたユグドラシルの乗員の視線がバルトに集まる。足音の消えた方向を見つめたまま動けないその様子に、今度は若い副官へと、非難の視線が集中した。
「…若」
 こちらも後悔の念に駆られて、シグルドがバルトの肩に手を掛けた。
「出港を、一晩延ばします。若が聖堂に入れるようにしてもらいますから。…ちゃんと話して来られると良いですよ」
「…でも」
 泣き出す寸前の声で、バルトは振り返らずに首を振る。シグルドの指に少し力がこもった。
「若にもマルー様にも、つらい道を強いているのは私たちです。若が憎まれ役になる必要はないんですよ。…マルー様もきっと、若がどうしてあんなことをおっしゃったか、ちゃんとわかってくださいます」
 それがわからないような少女であれば、却ってこんな苦労を背負わせようとは思わなかっただろう。マルーだったからこそ、ここでユグドラシルの庇護から離し、他の誰にも即けぬ孤独な地位を守らせることにしたのだから。
 もう少し愚かであれば、と。また、もう少し年齢相応であれば、と。残酷な道を強いながら、大人たちは少女の聡明と少年の強靭を嘆いた。その矛盾を百も承知の上で。
「夜になったら街までお送りします。…余計なことですか、若?」
 手を離して問われ、バルトはもう一度頭を横に振った。そんな風に力のないバルトの様子を見るのは初めてで、シグルドは言葉を継ぐのをためらったが、やがて幼い主君は顔を上げて副官を見返した。にっと笑ってみせるその顔は、平然を装おうとして失敗していた。
「ありがとな、シグ。行ってくる。今は、俺よりきっと、マルーの方がさびしいよ」  喉に張りついた声を引き剥がすように、バルトは言葉を切りながらそう言った。
 マルーの纏っていた橙の色が消えただけで、地下ドックは奇妙に殺風景になる。バルトは軽く唇をかみ締めた。これまで立場とか身分とか、たくさんのことを教えられ、面倒に思いながらも多少は理解したつもりでいた。けれどマルーのいないこの空虚と、これからずっと付き合わなくてはならないとは―――思っても、いなかったのだ。
「約束だぞ、シグ」
 念を押してから、バルトはユグドラシルの中に飛び込んだ。泣くまいとしていたことが、シグルドに伝わっていないよう願いながら。
 ややあって、メイソンが何度も後を振り返りながら戻って来た。その落ち着かない様子は、この老練の執事には似合わなかったが、表情にはどこか安堵の色がある。
「メイソン卿」
「シグルド殿、マルー様は無事に聖殿に入られました。シャーカーンの兵やニサンの民たちを前に、それはご立派でございましたよ」
 あの騒ぎの後で、立派と言われる態度を取り戻してしまうのはさすがと言えようか。故郷に戻る、本来ならそれだけのことなのだが、思えばこれがニサンの教母としての初仕事だったのだ。メイソンは感動しているが、シグルドは軽く息を付いた。マルーはこれから、法皇府の庇護の下、軟禁に等しい生活を送ることになる。感心しているのは彼とて同じだったが―――同時に痛々しい気もしてならない。
「メイソン卿、ひとつ頼みがあるのですが」
「ええ、私の方からも報告がありますよ」
 これまた珍しくシグルドの言葉を遮って、メイソンはにこやかに告げた。
「聖殿の裏手の、シスターの厨房の窓が破損しているのですが、今夜はまだ修理しないそうです。狭い窓なので、子供くらいしか通れないとか。シスターアグネスが詰めて見張るとのことでした。シャーカーンの兵には、報告するようなことでもないようですね」
 シグルドはメイソンをまじまじと見返し、それから軽くうなずいた。
「では、私と若は今夜、最後のニサン視察に参りますので」
「はい。留守はお任せを。あ、それからこちらは、シャーカーンの兵が落としていったものだそうです」
 そう言ってメイソンが手渡したファイルに入っていたのは、兵の交代時間に関する最新のデータだった。これだからこの老人は侮れないと、シグルドは感謝と一緒に、ややあきれたような気分を味わった。




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