未来からの約束
<2>






 ニサンの聖堂の奥、かつて母親が執務室にしていた部屋の片隅で、マルーは膝を抱えて座り込んでいた。これからはそこがマルーの寝室になる。野の花が飾られ、清潔でかわいらしい調度が整えられて、シスターたちがいかにマルーのために心を尽くしてくれたかがよくわかる。けれど今のマルーは、それを喜ぶことができなかった。窓から入ってくる淡い夜の光も、彼女を眠りに誘ってはくれない。
 熱の下がりきっていない体で、それでも今日一日マルーはがんばりとおした。式典などはシスターたちの配慮で省略されたが、教母の帰還に儀礼なしでは許されない。街の中を顔見せに歩き、いかにも人を見下した態度のシャーカーン兵の機械的な挨拶を受けて、教えられた通りに答礼を行って。あえて厳しくマルーに接するアグネスが見ても満点の出来だった。握手し、話し、笑いさえした。
 けれどずっと頭にあったのは、先ほどの別れのことばかり。
 バルトの言葉は悲しかったが、言わせたのは自分のわがままだとマルーは思う。あきれて怒ってしまったのだろう。しかもマルーにとっては、全て図星のことばかり。だから、余計に腹立たしくなって。
 思ってもいないのに。嫌い、なんて。
(若も、泣きそうな顔してた)
(言いたくないのに、って)
(なのに―――きらい、なんて、言った)
 自分が口にした言葉が、何重にもマルーを傷つけた。バルトに嫌な思いをさせたと思うとつらくてたまらない。
 夜着のまま壁のそばでうずくまっていると、高い窓から夜の空が見える。砂漠とはまた違う、湿度の濃い闇。ユグドラシルはもう出発してしまっているだろう。あんなことを言ってしまったから、もう戻って来てくれないかもしれない。そんな考えが浮かんでしまい、鼻の奥が痛くなってきて、マルーは目元を乱暴にぬぐった。
 小さなノックの音がしたのはその時だった。
 一瞬返事をしかけて、マルーは慌ててベッドに飛び込んだ。壁の時計は、もうとっくに眠っているはずの時刻を示している。明日も朝から、法皇府の職員や他国から来ている人たちと会見しなくてはいけない。熱も下がっていないのだからと、アグネスから厳重に安静を言い渡されている。
 だが寝たふりをしながらうかがっても、ドアが開く様子はない。入ってこないかと息をついて、ごそごそとベッドの上に起き直った。とたん。
「―――何でまだ起きてんだよ、マルー!」
 押し殺した声が部屋に飛び込んでくる。驚いて振り返ると、ドアが細く開いて、いかにもこっそりという様子で入ってくる人影があった。
 聞きなれた声と、見慣れた影と。マルーは目を丸くして、その声の主を見つめた。
「若…若!?」
「っと、こら、慌てるなよ。大きな声出すなって」
 ベッドからずり落ちかけたマルーに駆け寄って、バルトはしー、と指を唇に当てた。そのいたずらっぽい笑顔が嬉しい。マルーは夜の明かりに透かして、一生懸命に従兄の顔を見上げた。
「若、ほんとに若だよね」
「おう。シグがさ、出発延ばしてくれたんだ」
 もう寝てるかと思ったけど、とバルトははにかんだように笑った。マルーはその手を借りてベッドに座り直した。夢でも見ているのかと、自分で自分の目が信じられない。
「あ、あのね、若」
 なんでも良い、とにかく謝らなくては―――そう勢い込んで開こうとした口は、逆に謝罪の言葉で遮られた。
「ごめん!」
「え!?」
 バルトの頭が低い位置に沈んで、金の髪が月明かりにさらされる。深々と頭を下げた従兄の姿に、却ってマルーは慌てた。
「わ、若」
「ひどいこと言った。ごめん。ほんとに、わるかった」
「あ、あのね、ボクもごめんなさい」
 負けじと急いで謝り返して、マルーもバルトに倣って頭を下げた。
「いっぱいわがまま言っちゃって、ごめんね」
「いーや、俺の方が悪い。だからマルーが謝ったりすることないんだ」
「ううん、ボクの方が悪かったよ。だから、若が謝っちゃだめだよ」
「ちがーうっ」
 いきなり頭を上げたバルトは、握りこぶしを作って言い募った。
「俺が悪いって言ってるんだから俺のせいでいいんだ。だから謝っちゃ駄目なのはマルーの方だ」
「なんでっ!? だって若は、ボクがわがまま言ったから怒っただけでしょ」
「それが違う! 俺は怒ってない! あんなことだって思ってない!」
 この誤解だけは解かねばとバルトは勢い込んだ。マルーは目を見開いてバルトを見つめている。その碧玉が涙で濡れたときのことを思いだしてしまい、必死の上に必至を重ねてバルトは語を接いだ。
「マルーのは全然わがままじゃない! 俺だって、俺だってなあっ、マルーと別れるの嫌だし、心配だし、だけどマルーに何もしてやれないし! 全然マルーのこと言えないから!」
 声が壁に反射し、バルトははっとして口をつぐんだ。ユグドラシルではこれくらいの声で話しても大丈夫なのに、と舌打ちしたい気分になりながら。
「…とにかく、あんなの…昼間言ったのなんか、みんな嘘だから。だから、ごめん」
 バルトはもう一度丁寧に頭を下げた。マルーはぽかんとしていたが、やがて決心したように頷くと、ベッドから降りてバルトの肩を上げさせた。
「あのね若! それならボクだってうそつきだから!」
「へ?」
 間の抜けた返事を返したバルトに、負けない勢いでマルーは言った。
「若が嫌いって言ったの、嘘だから! あとね、ボク、ちゃんと教母の仕事するって言ったのに、駄々こねたからね、うそつきになっちゃったからっ」
 ごめんなさい、とマルーは頭を下げた。
 そのまま返事を待ったが、何故かバルトは何も言わない。恐る恐る目を上げると、待ち構えていたような安堵の笑顔がそこにあった。
「…よかったあああ」
 大袈裟に息をついて、バルトはもう一度にかっと笑った。
「嘘だな? ほんとに、嫌いって嘘だな?」
「…うん」
「おし」
 一人頷いて、バルトは俄かに真顔になり、マルーの両肩に手を置いた。
「じゃあさ、一つ、約束してほしいことがあるんだ」
「うん」
 真剣な目で見つめられて、マルーも真剣にうなずいた。
「これから先、絶対俺のこと嫌いって言うなよ」
「…え」
 教母のカクゴとかセキニンを説かれるのかと思っていたマルーは、一瞬呆気に取られて従兄を見返した。
「俺はこれから、何があってもマルーには嘘をつかないから。だからマルーも、絶対、嫌いって、言うな」
 自分でもばかばかしいことを言っているとバルトは思った。だが、嘘でも勢いでも、もう二度とマルーの口から自分を嫌いだなどと聞きたくなかった。
「俺も絶対、マルーに嫌われるような、嫌がられるようなことしないから。絶対だ。いいか、約束だからな」
 切るように強く言って、バルトはマルーの目を覗き込んだ。勢い込んでいながらも、その碧玉に浮かぶ不安が、いつもの彼とそぐわない。
「うん」
 マルーは頷いて、細い手を従兄の首に回した。
「言わない。絶対、言わない。…若、大好きだよ」
 優しい声が耳元で聞こえ、強い安堵がバルトの胸を満たす。
 先ほど傷ついた心が、みるみる癒されていくのが分かる。少女の言葉のなんと強力なことか。
「よっし、それじゃもう謝りっこなし! いいよな?」
 俄かに元気を取り戻して、バルトは高らかに宣言した。
「うんっ」
 劣らず元気な声が答え、バルトはもう一度安堵の笑顔を浮かべた。肩から外れてしまった手をマルーの背中に落として、その小さな体を抱きしめる。
 ―――が。
「マルー、お前、あつい」
 夜着越しの体温を察し体をもぎ離して、バルトは手をマルーの額に当てた。冷えた夜気の中、彼女の頬は火照って赤い。大丈夫、と返事が返るより速く、バルトはマルーをベッドに押し込んだ。
「若、平気だよ」
 抗議の声は、頭の上まで被せられた上掛けが封じた。
「何言ってんだよ。考えてみたらもうすっげー遅いし、ちゃんと寝とけ」
「平気だってば」
「…病気のまま置いてくの、やだからさ」
 言葉はぽつりと落ちてくる。頭を出そうともがいていたマルーの動きが止まった。
 置いてく、とか。置いていかれる、とか。嫌われるようなことはしない、とバルトは言ったが―――些細な言葉で、泣きたくなるのは…我慢しないと、いけないだろうか?
「…マルー?」
 布越しにバルトの心配そうな声が聞こえる。シーツを押し付けて涙が出そうになるのをこらえ、もぞもぞと頭を出して、マルーは少しだけ笑った。
「ボク、もっと丈夫になるね。若に心配かけないように」
 また会うときまでに、と言われて、バルトもちょっと笑った。
 また、会えるときまでに。
「そうだな。じゃあ、俺もエーテル術覚えて、それから鞭の使い方ももっと覚えて、あとギアの操縦もできるようになるからさ」
「それじゃあボクはね、エーテル術をちゃんと使えるようになって、詠唱も全部覚えて、ママみたいに教母のお話もできるようになる。やること、いっぱいあるね」
「おう、次に会ったら競争しようぜ!」
 バルトはマルーに手を差し出し、握手のようにその手を握った。 「約束だね」
「うん、約束だ」
 また会ったときに。
 その言葉の重み―――世界の流れから見たらちっぽけな、簡単に壊されてしまう言葉の、重み。
 約束して、互いを心から信じていながら、互いを取り巻く世界を信じられない。
 その悲しみを幼い笑顔で隠すことを二人とも覚えてしまって。
「待ってるからね、若」
「うん、絶対来るから」
 敢えて存在を無視していた時計が、小さく鳴ってその存在を主張する。バルトの視線が時針を読む。時間はいつも無情で、幼い二人のためには存在してくれない。
 つないだ手に一度だけ力をこめて、二人はそっと手を離した。
 決心は嘘ではない。けれどこの扉が閉ざされた後の空虚を、どこかで思わずにいられなかった。


 ゆっくり歩きながら、バルトとマルーはファティマ城を一周した。懐かしい思い出と、悲しい思い出の交錯する場所たちを見て回る。だいぶあちらこちら改装がなされていたが、概ね彼らの記憶にあるままのたたずまいを、この歴史ある城は保っていた。
 中庭を見下ろす二階のテラスにたどりついて、手すりにマルーを寄りかからせたときには、もう日はかなり傾いていた。ビリーとマリアはどうしたかと、マルーは少し気にしている。途中で会ったシグルドから、マリアがひとりでユグドラシルに戻ってしまったという話を聞かされ、相当こじれそうだと心配になってきたのだ。
「後で行ってみっか?」
「うーん、でも余計なことかもしれないし…」
 言いさして、マルーはふと口をつぐんだ。一階の中庭へ続く扉が開き、視界の隅を青がかすめる。
 飛び込んできたのは話題の主、ビリーだった。見下ろす二人に気づかずに、急ぎ足で中庭を横切っていく。足の向かう先は城外への近道だ。
「おーい、ビリー。どこ行くんだよ」
 そのまま通りすぎようとするのを呼び止めると、ビリーは二人を見あげて一瞬決まり悪そうな表情をした。軽くバルトを睨み付けたが、いつもの毒舌は返さない。
「ユグドラに戻る」
「へ?」
「急いでるから。それじゃ」
 ぽかんとしている二人を置いて、ビリーは返事も待たずに出て行ってしまった。その後ろ姿をしばし見送り、やがてバルトの喉に笑いがせりあがってくる。
「ちょっと、若」
 マルーが軽くにらんだが、笑いは腹を抱えた爆笑へと変わってしまう。
「あ、悪い…けどおかしくってな」
 床に座り込んで笑いつづけるバルトを、マルーは呆れて見ている。
「わーか! あんまり笑ってると、ビリーさんに言っちゃうよ」
「へいへい…あー、でも笑える」
 肩で呼吸を整えながら、バルトは涙の浮かんだ目をこすった。強敵に対しているときよりも緊張した表情をしていたビリー。昔マルーに会いに行ったときの自分もあんなだったかとふと考える。
「あいつも必死だな」
 笑いを含んだままの言葉に、マルーは生真面目に頷いた。
「ビリーさんのあんな顔初めて見たよ。…仲直りできると良いね」
「どうだかな。マリアは手強そうだし」
「もう、人事だと思って」
 むくれるマルーに、バルトはまた笑ってみせた。一緒にいる時間、交わす他愛のない言葉がこんなにもいとおしい。
 終わらぬ戦い―――それでも信じつづけるための遠い約束。
 それぞれに、少しずつ約束を果たして二人はここにいる。離れた距離を乗り越えて、同じ心をつなぎながら。
 そして願わくば、ビリーもマリアも、共に過ごす時間の尊さに気づいてくれるように。
「…約束は、ずっと有効だからね」
 マルーが笑顔とともにそうつぶやく。ひょっとしたら彼女に嫌われる方が、ソラリスを敵に回すより怖いかもしれないと、バルトも笑顔を返しながら思った。

―――End 1998/09/13



BEFORE




お子様バルトとマルーの無自覚天然いちゃいちゃと謝りあいを書きたかっただけ…
なのに伸びるったら。おまけに年齢が上がってる気も。
マルー帰還の設定は軒並みオリジナルな上無理があるので信じないでください。
マリアの「大っきらい攻撃」については、お話がまた別にあります。
実はそっちの話の方が先にできてて、こちらは派生した話…先に書いちゃったよ。



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