呼ぶ声
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 発端は些細なことだった。
 プリムが不意に、本当に不意にマルーの名を呼んだ。言葉が戻っても、父親以外、まだ誰の名も口にしたことのなかった彼女が。傍らに立つ兄の手をすりぬけるようにして。
 それだけのことだったが、ビリーは、妹の世界から自分が閉め出されてしまっているような錯覚を覚えたのだった。

 呼んでほしい。名前を。―――自分の存在を。


 極めて不機嫌な人間低気圧がガンルームに停滞している。普段この時刻はブリッジに詰めているはずの艦長が、どっかりと椅子の上であぐらをかき、戦闘時そのままの顔をしてドアを睨み付けているのだ。メイソンのお手製のお茶とクッキーは、先ほどから見事なまでのスピードで消費されているが、咀嚼と同時に呑み込まれるばかりで、まるで味わわれていない。おかわりを差し出しながらも、老執事の眉根は寄せられがちである。
「副艦長、あれなんとかしてくださいよ」
 休憩時間にくつろごうとガンルームに向かったクルーの面々が、ブリッジに舞い戻って来て口々に訴えた。
「ガンルームのど真ん中であんな顔されてちゃ、たまったもんじゃないですよ」
 シグルドは隻眼を細めたきりで何も言わなかった。ここしばらくの艦長の不機嫌、加えてその理由に関しては、勿論彼も気づいている。だが、本人が無自覚ではどんな対策もおそらくは無効だ。空いたきりの艦長席が妙にわびしく感じられ、ふっとため息がもれた。
 ニサンやアヴェの出身者たちは、国を奪還した後はバルトとマルーが結婚して共同統治するというビジョンをほぼ既定事実として考えている。が、かつてバルトにそう示唆したとき、彼は途中で話を遮って烈火のごとく怒った。自分はともかく、マルーがかわいそうだ、と言って。伴侶や未来を押し付けられ、縛られてしまってはたまらないと。
 しかしバルトは、自分自身が嫌だとは一言も言わなかった。マルーの意志を尊重しながらも、彼女が傍らにいない未来図を描いたことはないのではないかとシグルドは思う。当然のように笑顔と全幅の信頼を与えてくれる少女が、バルトに寄り添って立つ未来―――それは皆が望むことであると同時に、若い主君の望みでもあるはずだった。彼の言動の端々から、瞭然とそれは伺えた。
 以来マルーに関してはバルトに対し余計な口出し無用と、艦内では暗黙の了解ができている。だからここまで放置してきたのだが、いい加減に自覚を促すべきかと、シグルドは思案を巡らせた。こんなことをやっている場合ではない、はずなのだが。
「あれ、シグルド? 若は?」
 声と共に元気の良い足音が飛び込んできて、シグルドは天の助けとばかりに―――しかし表情は動かさないままで振り返った。
「今はガンルームにおられますよ、マルー様」
「ふうん? 珍しいね、この時間に」
 マルーはクッションを抱え、毛布を肩からかけている。
「お話はすんだのですか?」
「うん。楽しかったんだけど、寒くなっちゃって。メイソンがこれを用意しておいてくれなかったら、話す前に逃げ出すところだったよ」
 毛布を軽く持ち上げてマルーは笑った。風邪をひいたりしないようにという老執事の心遣いに、ほんの少しだけだが、シグルドは恨みがましい気分を抱いた。―――別にバルトの稚気を認めているわけではないのだが。
「ビリーの様子はいかがでした?」
 忘れずにたずねるが、マルーの表情と言葉から見て、彼が復調したのであろうことは容易に想像がついた。頷きを返して、少女はぽんとクッションを叩いてみせる。
「少なくとも、昨日よりは元気だと思うよ。今はプリムちゃんにクッキーを持っていくからって、さきにメイソンのところに行ってるの」
 びき、とブリッジの空気が凍り付いたのにマルーは気づかなかった。メイソンのところとは、すなわちガンルーム。あの人間低気圧を発達させる最大要因が、その只中に飛び込むということに…。
 シグルドは一瞬頭痛を覚えた。ふと気づくと、先ほど戻ってきたはずのクルーたちが残らず姿を消している。見物とばかり、バルトのもとに向かったのだろう。
「じゃあボクもガンルームに行ってみるね」
 当直中のクルーたちをひとしきりねぎらってから、マルーはそう言ってブリッジを出ていった。ドアが閉まる瞬間、彼女の後ろ姿に乗員たちの視線が集中したのは、致し方のないことと言えようか。
 オペレーターが、おそるおそるといった様子でシグルドに声をかけた。
「…副艦長」
「なんだ」
「……もう、明日にはニサンに着いちまうんですけど」
「…………」
 士気にかかわる、とか。主戦力二名が仲たがいしていては困る、とか。そんなことは百も承知である。しかし。だがしかし。
 …育て方を間違えた。
 と愚痴りたいのをぐっとこらえ、シグルドは盛大なため息をひとつ吐き出した。




BEFORE To Be Continued.




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