呼ぶ声
<3>






 甲板からデッキに上がると、そこには既にクッションと毛布が二組ずつ用意され、メイソンの心尽くしのお茶とお菓子が魔法瓶つきで置かれていた。寒風吹きすさぶ空の上、実はビリーもマルーも少々場所 の選択を後悔していたのだが、毛布にくるまって風の当たらない陰に寄ると、ほっとなごんだ気分になった。
「なんだか楽しいね。空の上でピクニックしてるみたい」
 カップにお茶を注ぐと、マルーはその温かい陶器の感触を楽しむように両手でビリーに手渡した。バルトが見たらまた妬くだろうな、と思いながらも、ビリーもまたこの状況を楽しんでいる。
「バルト、来てないみたいですね。見に来るかと思ってたけど」
 ゼプツェンの整備―――というか見物に余念の無い乗組員たちを遠くに見ながら、ビリーはビスケットをひとつつまんだ。甲板の下でバルトがマリア相手に奮闘していたことは、もちろん二人とも知らない。マルーはシフォンニサーナ味のクッキーをかじりながら首をかしげた。
「若はどうして、あんなにビリーさんのこと気にするんだろうね」
「…いや、僕のことを気にしてるわけじゃないと思うんですけど」
「え、だってこの前からずっとあんな調子だし。でも喧嘩してるわけでも、嫌ってるわけでもないっていうから、不思議なんだけど」
 元々バルトは、誰かに対してそうそう隔意を抱くたちではない。それをよく知っているマルーには、どうにも彼の行動の原因がつかめなかった。ビリーは理由を承知していたが、それをわざわざマルーに告げる必要はないと思っている。
「大丈夫。マルーさんが心配するようなことは何もありませんから」
「…そう?」
「それで、お話は?」
 促されて、マルーはカップを持ったままビリーを見つめた。少し改まった様子で口を開く。
「ええとね、プリムちゃんのことなんだけど…」
 ビリーはやはり、という考えがかすめるのを止められなかった。昨日あれだけ失態をさらしたのだから、マルーが気にして当然だと思っていたが、名を聞くと少し気が重くなる。
「ボク、昨日あれから、プリムちゃんと話したんだ。って言っても筆談だけど」
 声を出せるようにはなったが、プリムはまだほとんど話さない。だがビリーが教えたおかげで、彼女の年齢にしては達者な文章を書くため、意志の疎通にはあまり困らなかった。
 ビリーは居住まいを正してマルーの目を見た。改めてこの話題が出ると落ち着かない気分になる。
「やっぱり、何か理由があるんですか? …プリムが、僕の名前を呼ばないこと」
「うーん…ボクも、ちゃんと聞いたわけじゃないから、憶測なんだけど」
 前置きして、マルーも姿勢を正した。遠くゼプツェン付近の甲板から見ると、ほとんどお見合い状態である。
「あのね、プリムちゃんは、ビリーさんの重荷になるのがいやなんじゃないかと思うんだ」
「…え?」
 ビリーの蒼い瞳が瞬く。彼の思っていることと、その言葉はかなり食い違っていたからだ。マルーはもちろん、その考えに至ったきっかけを話した。
「プリムちゃんがね、お兄ちゃんは呼ぶと来てくれるから呼ばない、って」
「…何、それ」
 一瞬丁寧語を忘れてビリーは聞き返した。橙の鮮やかな帽子の少女は、真剣な眼差しでビリーの目を見詰める。
「プリムちゃんが書いてたのはそれだけだけど…ビリーさんはいつも、プリムちゃんのために一生懸命でしょ? プリムちゃんはそれで、ビリーさんが無理してると思ってるんじゃないかな」
「え…だって僕、無理なんかしてないよ。本当に、プリムが大事だから…あ、ごめんなさい」
 身を乗り出しかけて、ビリーは自分の言葉づかいにようやく気が付いたらしい。もう一度律義に姿勢を正した彼のまじめさを、マルーは好意を持って見ている。
「ユグドラに乗ったのは、逆にビリーさんのことが心配だったからだと思うけど。年の割にすごくしっかりしてるよね、プリムちゃんて」
 何度も瞬きして、ビリーは言われた言葉を頭の中で反芻している。
 プリムはまだ七歳の、子供以外の何者でもない少女だ。ビリーの目に、彼女は守るべきもの、愛されるだけで許されるものとして映っている。
 その彼女が、自分のことを心配している?
 呼ぶと来てくれるから呼ばない。それはつまり、彼に助けを求める気も、手を借りる気もないということか。
「あ、でもね、お兄さんをいらないって言ってるんじゃないよ。それなら着いて来たりしないよ」
 マルーは慌てて言葉をつないだ。
「ボクもちょっと覚えがあるんだけど…大変なときに、自分のためにもっと大変になるのがいやなんじゃないかな」
「…それじゃ、プリムは僕に負担をかけないために?」
「うん、多分」
 頷きを返され、ビリーはしばし沈黙した。
 マルーには、プリムの気持ちが良くわかる。無条件でただ守られて、守り返すことが出来ない自分たち。その力を持たないことを歯がゆく思い、せめて守ってくれる者たちの負担とならないことを願っている。この思いには、おそらく年齢も身分も関係がないのだ。ただ、彼女の場合、少し方法に問題があるようには思うのだが―――実際、プリム自身にも、言葉は思い通りにならないらしいので仕方がない。
 考えに沈んでいるビリーの顔を見ながら、脳裏を隻眼の従兄の顔がかすめた。ビリーは考え込んでいるけれど、バルトはどうだろう? 以前、マルー自身のことを告げたときは、…笑い飛ばされた、ような覚えがある。
「…油断ですね」
 しみじみとした口調で、ビリーは沈黙を破った。
「そんなに考えてくれてたなんてね。守らなくちゃって思い込んでたのに」
「それは仕方ないよ。プリムちゃんはほんとにまだ小さいもの」
 淡々とマルーが言ったのは事実だ。ビリーは頭を抱えたくなる。父親は長く行方不明、目の前で母親をウェルスに殺され、兄はしばらくではあったがその黒幕の保護を受けていた―――こんな経験をした七歳児が、他にどれだけいるだろう?
 ビリーは自分が七歳のころのことを思い出してみた。あのころはまだプリムも生まれておらず、優しい両親と、落ち着いて平和な、愛されるだけの平和な生活を送っていた。一足飛びに大人になることを強要されたりは決してしなかった。今のプリムのようには。
 そう考えかけて、ビリーはふと目の前の少女を見た。マルーも、悔しいがバルトも、幼い頃の過酷な経験を乗り越えてここにいる。省みて、自分はどうだろう?
 思考の袋小路に入りそうになったビリーに、マルーは優しい笑顔を向ける。
「大丈夫だよ。今はお父さんもついてるし、プリムちゃんは賢いから。ちゃんと話せばわかってくれるよ」
 慰めではなく本気の口調で言われ、ビリーは少し目を細めた。
 こうして側で見てはげましてくれる人がいるのは、とても嬉しいことだとここに来て知った。バルトは幸せだと思うにつけ、考えがついつい別の方向に向いてしまう。
「…でも、親父のことだけ呼ぶのは、勘弁してほしいんですけどね」
 いかにも悔しそうにビリーが言うので、マルーは首をかしげて尋ねた。
「やっぱり、お父さんのことは気になる?」
 この言葉を聞いて、ビリーの口元に一瞬苦笑がひらめいた。
「親父のこと、ねえ…」
 服の下に装備されている銃がかちゃりと鳴る。妹に対するものよりもっと複雑な思いを、彼は父親にたいして抱いている。
「…うーん、確かに、手放しで好きとは言えないけど。プリムのことに関してだけなら、親父に文句がある訳じゃないんです。多分」
「え?」
「僕は、親父がうらやましいんです。拗ねてるだけなんですよ」
 他の者には決して言わないような言葉を、ビリーは素直に口にしていた。
「僕はただ、プリムに、呼んでほしいんです。僕の名前を。それだけなんです」
「ビリーさん…」
 マルーはまじまじとビリーを見詰めた。良く似た面ざしのプリムが一瞬重なって見える。
 目が口ほどに物を言う、笑顔のかわいらしいあの妹を、ビリーはどれほど大事にしてきたことか。守ってくれる者が誰一人ない生活の中で、一刻も早く大人になろうと肩肘を張って来た彼にとって、妹は確かに庇護すべき存在で―――同時に、支えでもあったのだ。
 ただ、それをちゃんと伝えていなかっただけのことで。
 悲しげに歪められたビリーの顔を見て、マルーは少しうなだれた。最後の言葉は余計だったか。
「あの、ごめんなさい、ビリーさん。ボクが偉そうに言えるようなことじゃないのに、おせっかいなことしちゃったみたい」
「え!? そんなことないですよ」
 しゅんとしてしまったマルーに、ビリーは慌てて笑顔を作ってみせた。
「それどころか、すごく嬉しかった。…プリムにそんなに心配をかけてたなんて、今まで思ってもみなかったし」
 兄貴失格ですね、とビリーは苦笑する。
「責任を感じているっていうのは、確かにありますけどね。でも今まで無理をしてたわけじゃないんです。僕はプリムが大事だし、笑ってくれると嬉しいし、ほんとに可愛いと思うし」
「うん、そうだよね」
 兄馬鹿ぶりを発揮するビリーを笑うでもなく、マルーはうんうんとうなずいた。
「プリムちゃんにそう言ってみるといいよ。きっと安心するから」
「そうですね、そうします。近くにいるからって気を抜いてましたね」
 ビリーは苦笑して、自嘲混じりにつぶやいた。
「ちゃんと伝えないと、わからないこともあるのに」
 その言葉は、何故かマルーの胸に重く響いた。



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