手のひらの熱<前編>





 サルガッソの海は大荒れに荒れていた。
 天候不良で海面が波立っているというなら、普通は潜航してしまえば多少はしのげる。だがこの荒れの原因は、見事に常識外れに流れを変える海流にあった。
 タムズに保存されていた海図と実際の状況が違っていたため、ユグドラシルは一度覚悟なく潜ってしまい、濁流に飲まれた木の葉さながらに揉まれて危うく沈没するところだった。かろうじて浮上に成功した今も、潮の流れがはげしく寄せて艦体を揺らす。それは海に慣れている熟練した乗員たちも酔いを覚えるすさまじさだった。
 海流のデータ収集と解析が急務ということで、彼らはサルガッソ近海まで来て足止めされている。ブリッジで解析にいそしんでいるシグルドとシタンが、甲板に上がるべからずと厳命し、青い空が広がっていることはわかっているのに外に出ることも出来ない。
 当面することの無いギアの搭乗員たちは、なんとなくガンルームに顔をそろえていた。彼らは一般の乗員に比べればまだしも顔色はよかった。加速減速振動に対する耐性は常から鍛えられている。それに大人数でいれば気が紛れるということに加え、メイソン特製の香草茶が酔い抑えによく効くのである。入れ替わり立ち代わり現れる乗務員たちの目当てもこのお茶で、老執事はフル回転の多忙ぶりだった。お茶を注ぎながら、揺れをものともせず見事な平衡感覚を披露するメイソンを、一同は尊敬のまなざしで見上げたものである。
 とは言うものの、さすがに完治に至るというわけにはいかない。
「マリア、飲んだら部屋に戻ったほうがいいよ。休んでないと」
「…お気遣いなく」
 広いテーブルの定位置の席につき、柔らかく香気の立ち上るカップを揺らしながら、マリアは隣席のビリーに言葉を返した。マルーやエリィが平気な顔をしているのに、サルガッソに向かう予定の自分が船酔いを起こしているのが少し情けない。他の出撃予定者、フェイとバルトも船酔いなど何処吹く風で、女性陣にリコとハマーも交えてカードゲームに興じている。ビリーとマリアはその団体から少し離れて、いつもの席に腰掛けていた。
 「揃っているとそこだけ白い」と、ジェサイアがからかった二人。どちらも見事な銀髪で、抜けるように白い膚をしている。ことにも今は、その膚から血の気が失せて、紙のようなと評しておかしくない色をしていた。誂えたようにふたりとも。
「私の心配なんかなさってないで、ビリーさんこそ部屋に戻られたらいかがですか」
 なるべくそっけなく聞こえるようにマリアは言った。ビリーの前のカップはとっくに空なのだ。なのに彼はなかなか席を立とうとしない。
「ここの方が気が紛れるから」
 ビリーの目はわずかに笑っている。マリアは視線をそらして、香草茶のカップを見ているふりをした。
 彼の隣は、マリアには少し居心地が悪い。
 目が合うと必ず微笑してくれるが、そのたびにマリアはちょっとため息をつきたいような気分にさせられる。はんなりという形容が似合う、自分より綺麗だと思われるような整った顔立ち。華奢な造作も手伝って、どうも彼が「少年」だということに違和感を感じるのだ。銃の腕前は承知しているが、シグルドやジェシーといるときに見せる表情を見ていると、どことなく頼りないような気さえする。大きなリボンのついた教会の聖服もその一因かも知れない。
 年齢の近い知人がいなかったマリアの目には、ビリーはどことなく理解しがたいものとして捉えられていた。それが外見からの先入観だということはわかっていたが、何せ今まで並んで戦う機会がほとんど無かったのだ。それはつまり、今のマリアには、知る機会が無いと言うに等しかった。くつろいでいる顔や妹たちに笑ってみせる顔しか見たことがない。彼が穏やかにマリアを見るたび、ここは戦場のはずなのに、と理不尽な苛立ちを感じてしまう。
 けれどガンルームでは、銘銃マシガネーターの正面の位置が彼の指定席で、何故かマリアの椅子はその隣と決まってしまった。揃って食事するときも、戦いの後冷たい飲み物を供されるときも、必ずビリーの姿の何処かが視界の隅に入って来る。どんどん増えてくる乗員にそれぞれ席を割り当てていたら、そこしか残っていなかったらしいが。
 ―――落ち着かない。
 急いでいると気づかれないよう注意しながら、マリアはお茶を飲み干した。
「私、ちょっとゼプツェンの様子を見てきます」
 椅子を背の方へと追いやりながら立ち上がる。揺れのためか、乱雑な音を立てたその動作に、ビリーが慌てて振り返った。
「ゼプツェンを? こんなときに甲板に出たら危ないよ。今は整備員の人もいないはずだし」
 真面目な顔で注意されて、マリアももちろん真面目に反論する。
「出たりしません。格納庫のモニターで見るだけです」
「じゃあ、僕も行くよ」
「え?」
 立ち上がったビリーを、マリアは慌てて押しとどめようとした。
「別に、一人でも大丈夫です」
「念のためね。保険だと思って」
 二人のやり取りを察して寄ってきたメイソンにカップを渡し、ビリーは椅子を戻した。その顔を見上げて、マリアは少し困ってしまった。実際にゼプツェンの様子を見るつもりではあったが、それはこの場を離れる口実でもある。これなら部屋に戻ると言ったほうが良かったか。
 ビリーはマリアの困惑に気づいていないように見えた。
「外に出なくても、揺れたら危ないでしょ。それに君は、もし異常が見つかったら出て行っちゃうような気がするし」
「そんなこと―――」
 しません、と言おうとしたとき。
 いきなり足元の床が持ち上がった。
「マリア!」
 ビリーが腕をつかむのと、壁が真横に迫ってくるのが同時だった。
 先ほどまで座っていた椅子が机にぶつかるように傾く。ビリーはとっさにマリアを腕に抱え込み、床に固定されている大テーブルに身を寄せて座り込んだ。壁から額縁や装飾灯が落ちてくる。
 ガンルーム自体が傾いているのだと悟るのに数瞬かかった。
 倒れかけたカードテーブルからカードとコインが散らばる。リコがカードテーブルの足をつかみ、椅子ごと転倒したハマーをフェイとエリィが助け起こして、床になりかけている壁に足をつかせた。銀の食器類が棚から落下し、床にぶつかって不快な音をたてる。他の乗員たちもてんでに手近なものにつかまっていたが、何人かが壁に叩き付けられた。
 マリアは膝をついた床から金属の擦過音を聞いた。つい先日、水中で海流に揉まれたときと同じ状況だった。あのときは部屋にいて、頭から毛布をかぶっていたけれど―――
 聖服の肩越しから、鉢植えが斜めに転がるのが見え、マリアはようやく自分の態勢に思い至った。机の下で、ビリーの手に抱えられた格好で座り込んでいる。しかも彼にしがみつくようにして。
 二人は部屋で最も高くなりつつある場所にいたが、ビリーが机に掴まって二人分の体重を支え、「転落」を防いでいた。壁からの落下物がいくつもぶつかった痕跡が彼の後ろに転々と散らばる。マリアは離れようともがいたが、ビリーの腕はびくともしなかった。
「ビリーさん、あの」
「…ちょっと我慢してて」
 ビリーは左手をマリアの背に回して支え、右手でテーブルの脚につかまっている。今手を離されたら、下がっている方の壁まで転がって行ってしまうだろう。ひざで座った彼の態勢が、かなり苦しいことが声からわかって、マリアはとりあえず暴れるのをやめた。代わりに心臓が、この傾斜のせいだけではなく、ばくばくと暴れまわっていたが。
 そのまま部屋が横倒しになるかと思われたとき、艦体を立て直せるぎりぎりのところで傾斜が止まった。だが、息をつく間もなく床が水平に戻っていく。加速をつけながら。
「揺り返しが来るぞ!」
 叫ぶバルトもマルーを片手に抱きしめていた。大テーブルの周囲の何人かが、椅子を盾にしながら机の下に飛び込んでくる。シーソーのように直線的な揺り返しであればまだしも、この揺れの方向には明確な規則が無い。円形の盆が落ちて回りながら伏せるときのように、床の傾斜も気まぐれにその向きを変えた。マリアは手の届く範囲に来た椅子や小物を出来る限り食い止めるようつとめたが、ビリーの背中にぶつかるのは防げなかった。
 それでもやがて、凪ぐように揺れが収まり始める。
 これでこの手から解放されると、マリアは熱を持った頭で考えた。だが放しても転ばないくらいに水平に戻っても、ビリーは腕をゆるめようとしない。人々が立ち上がる気配を感じて、マリアはビリーの胸に思い切り手を突っ張った。
「もう大丈夫ですから、ビリーさん」
「あ、ごめん。痛かった?」
 的外れなことを言うビリーがゆるめた腕から、マリアは大急ぎで抜け出した。二度三度深呼吸する。大丈夫、顔は赤くなっていない。ビリーは先に立ち上がったが、マリアがなかなか出てこないので、もう一度テーブルの下をのぞきこんだ。
「大丈夫? どこかぶつけた?」
「大丈夫ですってば。自分の心配をなさってください」
 平常心を念じるあまりか、その声はひどく厳しく、また堅く響いた。ビリーは少し驚いたように息を飲んで、それでも手を差し出してくれたが、マリアは一生懸命にそっぽを向いて自分で立ち上がった。彼が怪我をしていないようなので安心したが、聖服があちこち汚れていて、なんだか泣きたいような気分になる。
「…すみませんでした」
 顔を見ないようにしながらぎこちなく頭を下げると、行き場をなくした手が一瞬さまよってから引いていく。視界からビリーが完全に消えて、マリアは少しほっとした。
 さっきは目の前すべてがビリーの肩と胸だったから。
「みんな、大丈夫?」
 ガンルームを見渡して確認したのはエリィだ。ビリーとマリアにも声がかけられ、気がそれた二人はうなずきだけを返した。バルトがマルーを立ちあがらせ、リコが抑えていたテーブルから手を離した。他の乗員たちも手すりにしがみついた手をゆるめ、また机の下から這い出したが、顔を見合わせて落ち着かない表情をしている。
 マルーがひとりひとりに声をかけながら部屋を回る。フェイもエリィとハマー、メイソンに怪我が無いのを確認し、バルトは壁の内線電話に飛びついた。
「ブリッジ! 何があった!? 事故か!?」
「こちらは大事ありません、若。申し訳ない、操舵ミスです」
 瞬時も置かずに応答が来る。スピーカーから響く冷静な声はシグルドのものだが、その後ろから半泣きの声が聞こえてきた。新任の操舵手だった。
「若あ、すいません。舵取り損なって、横波まともに受けちまいましたあ」
「取り損なってって、お前なあ!」
 脱力したバルトの隣、無言で立ち尽くすメイソンの背中に哀愁が漂っている。鉢植えからこぼれた土、ポットからあふれる自慢のお茶が、今は床を飾る名画の上に染みを作り出している。ガラスや陶の食器類を避難させておいたことが数少ない救いか。ちなみに波は舳先から受けるのが、通常の操船の基本である。
「と、とにかく艦内の確認だ。今からそっち行くから」
 バルトを遮って、内線の向こうの人物がまた代わった。
「若くん、待ってください。エレベーターの点検をしないといけませんので、そちらはまず機関室をお願いします。こちらは大丈夫、今の波で、かえってデータが揃いましたからね。ついでにバランサーの調整もしますから、これからはあまり揺れなくなりますよ」
「…ほんとかよ」
 半信半疑の声が問答を続けている間に、マルーはガンルームをほぼ一周してマリアとビリーのところまで来た。二人とも無事だとほっとしていたマルーは、改めて声をかけようとして、その場に足を止めてしまった。
 なんだか、空気が重い。
 マリアは椅子や床に散らばった小物を黙々と片づけている。ビリーは落ちたマシガネーターを注意深く壁に架け直し、マルーを振り返って少し笑った。
「すみません、プリムの様子を見てきたいんですけど、ここをお任せしていいですか。親父と一緒のはずだから、大丈夫だとは思うんですけど」
「うん、いいよ。もちろん」
 マルーがうなずくと、ビリーはマリアの後ろを通過してドアに向かった。巻毛の髪がかかる背中が緊張したのをマルーは見逃さなかった。ドアの開閉音が消えると、マリアはふっと肩の力を抜いた。
「…あの、何かあった?」
「別に、何も」
 身構えていたように返事があって、マルーは眉をひそめた。心ここにあらずという表情がマリアらしくない。フェイとエリィが机の反対側からそれを見咎めて近寄ってきた。
「マリア、大丈夫か? さっきより顔色が悪いみたいだ」
「ほんと、真っ青よ」
 自分が船酔いを起こしていたことを、今更のようにマリアは思い出した。
「横になって休んだほうが良いわね。部屋を片づけてくるわ。終わったら呼びに来るから」
 二人で使っている部屋にエリィが小走りで向かい、フェイは椅子を引いて座らせてくれた。マルーも心配して、エリィが戻るまで側についていてくれた。みんなの好意はこうやって受けられる。なのに、どうしてビリーだけ―――
「…お礼、を」
 言い忘れてしまった。
 ポツリとつぶやいた言葉を、マルーが聞き返さないでいてくれたのが嬉しかった。



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