手のひらの熱<後編>





 真夜中、マリアは足音を忍ばせて甲板への梯子を上った。
 シタンの予告どおり、確かに揺れは感じなくなった。けれど変わらず波が高く、飛沫にぬれた鉄の上は足元がおぼつかない。途中で何度か足を滑らせそうになりながら、それでも闇に黒い巨体をさらすゼプツェンの元に急ぐ。主を認めて膝を折る愛機もまた、半身に潮をかぶって雫を月光に光らせていた。
 なんとか操縦席に上がり、一応係留索の強度を確認してから、シートで胎児のように体を丸める。シェバトで戦っていたときも時々ここでこうして一人になり、自分の体温と鼓動だけを感じていたときがあった。ユグドラシルに乗艦してからは忘れていたことだ。
 でもこんな風に、一人のことばかり考えていたことはなかったけれど。
 あの後部屋に戻ったマリアは、ずっとベッドの中で過ごした。夕食には気分も良くなったので起きて行ったが、ビリーは姿を見せなかった。空いた隣の席に少しがっかりして―――そんな自分に驚いて、部屋に戻ってからもずっと寝付けなかった。明日は出撃なのに、と頭の中で自分を叱咤しても効き目がない。
 きつく言い返したときのビリーの顔が何度も浮かんでくる。
 怒ると思わなかった。今まで彼がマリアに怒ったことは一度も無い。示してみせた態度といえば、気遣いと親切と、そんなものばかりだったから―――安心していた。
 けれど大変な思いをして守った相手から、一言の礼もなければ、気を悪くして当然だろう。
 ちゃんと謝らなくては。そう思って、消灯前にビリーを探した。けれどプリムの世話も今日はジェシーがやっていて、何処にいるのかわからなかった。明日の出撃は、海流の関係で午後からになる。それまでに彼をみつけることができるだろうか。もし避けられているとしたら?
 ―――そんなことばかり考えていたマリアは、どこか覚悟を決めたような声がかかるまで、ゼプツェンの足元に人がいることに気がつかなかった。
「マリア、そこにいるね?」
「え?」
 声を聞いたとたん、心臓が一つ調子はずれに鳴った。慌てながらもそっと顔を出してみると、月光より淡い色の銀髪が、ゼプツェンの足元で風になぶられている。
「やっぱり君だった。出ないって言ったのに」
「ビリーさん!?」
 驚いて見下ろす彼女の顔は、ビリーからは月の影になって見えない。
 波の先が甲板にかぶるのを見て、マリアは急いでゼプツェンを操作した。少女の愛機が手を伸ばしてくれたので、ビリーは内心で胸をなで下ろした。彼も足元が心もとなかったが、もしマリアが顔を出さなかったら、座り込みを敢行するつもりで来ていたのだ。それでもその覚悟はおくびにも出さず、身軽にゼプツェンに上っていく。濡れるのを免れている肩先に座ると、二人は同じ高さで向き合うことができた。
 昼間の厳しさはビリーの表情から消えている。けれどマリアはどことなく逃げ腰になっていた。
「あの、どうして、私がここにいるって…」
「どうしてって、誰かが外に出ればわかるよ。ドアロックは、全部ブリッジで管理してるんだから」
「…あ。そう言えば」
 ロック忘れで浸水や隔壁破壊があっては笑い話にもならないので、ブリッジで一括して状況を監視しているのだ。通常は艦長か副艦長の許可で、ブリッジからロックを自動解除する。だがマリアが緊急時に出動するときのため、メインの出入り口以外に、甲板のハッチが一箇所だけ手動で開くようになっていた。彼女はいつもそこを利用しているので、ロックのことは忘れていたのである。
「僕、さっきまでブリッジにいたから、それで気がついて見に来たんだ。昼間ゼプツェンのこと気にしてたから、多分マリアだと思って」
「でもそれなら、通信機で呼び出してくれれば良かったのに」
「うん。でも僕も風に当たりたかったし」
 言い訳めいたことを口にしながら、ビリーはいつもそうするように微笑した。
 途端、はっきり顔に血が上るのを感じて、マリアはうろたえた。手を伸ばせば頬に指が触れる距離。コンソールパネルの電子的な光以外には月光しかないが、ビリーに彼女の顔は見えているはずだ。
 思った通り、眉が怪訝そうに寄せられて、マリアは慌てて操縦席の奥に後ずさった。
「…マリア」
 呼ぶ声にわずかな苛立ちが含まれる。真剣な視線がマリアを捉えて動きを封じてしまう。それでも体が引けてしまうのはどうにもならない。
 ビリーはしばらく言葉を捜している様子だったが、やがてふっとため息を吐いた。
「僕は何か、マリアに嫌われるようなことをした?」
「…え?」
「最近ずっと、顔を合わせてくれないし、合わせてもすぐ目をそらすし、今みたいに逃げちゃうし。最初のうちはそんなことなかったでしょ。どうして?」
 マリアの目が見開かれ、月の影に深さを増す碧の瞳がまっすぐにビリーの方を向いた。そんなことはない、と答えようとして―――そして初めて、自分が今までとっていた行動が、相手にどんな風に映っていたか気がついた。
 月光を半身に受ける彼は、やはりどこか華奢な印象を纏っている。けれど今ここにいるのは、どこか拗ねたような表情の少年。片膝を抱えてマリアを見返す、そんな姿勢も初めて見たような気がする。
 こんな当たり前の彼を。
 ビリーのことを、何も知らなかった。知ろうとも思っていなかった。
 しかもこちらの思い込みだけで取っていたそっけない態度は、とっくに気づかれていた。ビリーはそれでも笑顔を向けてくれていたのに、自分は。
 マリアは申し訳なくなって、うなだれてしまった。きっと、いやな思いをさせていたに違いない。
 彼の蒼い視線からは逃げ場がなかった。せめて頬に上った血を月光から隠すために、マリアは片手で髪を治すふりをし、何と答えたものか一生懸命に考えた。けれど思考は彼女の自由にならず、一番つまらない言葉を選んで口に上らせてしまう。
「…あの、ごめんなさい」
「え? 違うよ、謝ってほしいんじゃないよ」
 ビリーは慌てて居住まいを正した。こんな風に謝罪が返るとは思っていなかったから、少し意外な気持ちになりながら。
「ただ僕が、何か君の嫌がるようなことをしたのかって。もしそうなら謝るし、これから気をつけるから」
 少し赤くなりながら、ビリーは眉を寄せてマリアの顔を見た。
「昼間もね、…僕がべたべた触ったからいやだったりしたかな、とか」
「え!? なんですか、それ」
「違うの?」
「え、ええと」
 真面目に尋ねてくるビリーになんと答えたものか、マリアは考え込んでしまった。違う、と答えるのもおかしな気がする。実際、いやだったわけではないから、なおのこと。
 かばってもらっていた間のことを思い出すと、ますます頭に血が上る。ただ、手が思っていたより大きくて、驚いた―――というのが、正直なところのような気が、した。だからうろたえていたのだと。
 けれど、ビリーにそんなことは言えない。絶対に。
「別に、何も、ないです」
「マリア」
「ビリーさんのせいじゃ、ないんです」
 とにかくビリーの誤解だけは解かねばと、マリアは一生懸命に言い募った。
「なんだか、あの。…昼間は、いろいろ考えているときに、いきなりあんなことがあって、驚いてしまって…その前は、…別に、ビリーさんを避けたりなんか、してませんし」
 言うことが支離滅裂になってきたのがわかって、マリアは頭を抱えてしまった。昼間まで思っていたことを正直に言ったら、逆にビリーを傷つけてしまうだろう。そう思うと、もとより嘘やごまかしの苦手な彼女に、言葉はまるで自由にならない。
 こんな様子のマリアを見るのは初めてで、ビリーは目を丸くした。マリアは少しだけ視線を上げて、考えつつも問いを口にする。
「あの…ビリーさん、は、どうなんですか?」
「え?」
「気を悪くなさってないんですか?」
「…うん、実は昼間は、ちょっとむっとしたかな」
 ビリーは冗談にまぎらわせながらも、真剣な表情になって答えた。
「でもあの後で、ひょっとしたら出過ぎたことだったかなと思って…僕は君くらいの年の女の子って、あまり話したことがないし。いろいろと気のつかないこともあるかなって」
「そんなことはないです」
 これは正直にマリアは答えた。実際、細かいところまでよく気の利く人だと思う。マリアの態度に不満を抱くより先に、自分の行動を省みてしまうあたりが如実にそれを語っている。だからこそ意味も無く侮ってしまっていたのだから。
 一生懸命に考えて、マリアは少しの沈黙の後にやっと口を開いた。それは陳腐な言葉だと思ったが、もう自分の語彙に信頼が置けなくなってしまったのだ。
「ビリーさんは、…いい人だと、思ってます」
 大真面目に言われて、ビリーは少し笑った。
 女の子にこれを言われたら嘆くべきかな、と少し思う。それでもマリアが、それはそれは必死に言ってくれたのがわかるので―――彼女のそんな表情を、とてもかわいいと思ったことは事実なので。
 とりあえず、追求をやめることにする。それよりも言いたいことがあったから。
「それじゃあ、マリア。一つだけ良いかな?」
「え?」
「僕は君のこと、怒ってないし、嫌ってもいないから。覚えておいて。これから、ひょっとして怒ることがあっても―――」
 目を瞬いているマリアの耳に、ビリーの声はすんなりと通って来る。
「―――これからも、嫌いにならないからね」
 そう言った方も言われたほうも、自分の血がいつもの倍以上の速度で体中を駆け巡るのを感じた。唐突だったかと、ビリーは言い終わった途端に反省したが、マリアはちゃんと彼の顔を見てくれていた。
「…それは、甘やかしすぎですよ」
 どうにか絞り出した言葉も、真っ赤な顔では迫力も半減する。ビリーは彼女より長く生きている三年分を余裕に加え、笑みを浮かべた。
「君は意地っ張りみたいだから、ちょうど良いでしょ?」
「別に、意地っ張りなんかじゃ」
「はいはい」
 今はもう、意地を張っているのは言葉だけだ。少女のくるくる変わる表情は、今までよりもずっと雄弁で、ビリーは頬が緩むのを止められない。
「何を笑ってらっしゃるんですかっ」
「ごめんね。生まれつきなんだ」
 マリアは怒ってビリーに詰め寄った。その度にビリーが笑うので、ますますマリアはむくれてしまう。けれどそんなやりとりは、彼女にとって決して不快なものではなかった。
 むしろずっとこうして彼と話していたい。
 これからはきっと、この人の側は、とても居心地の良い場所になるだろう。そんな気がした。


 話していられたのは少しの間だけだった。自分たちが今いる場所を思い出すと、口数が少しずつ減っていく。
 高く上った月が傾きかけ、二人の影が深くゼプツェンの装甲に落ちた。その黒を見るとも無しに見ながら、マリアはぽつりと口を開いた。
「…もう、戻りますね。私は明日、出撃ですから」
「…そうだね」
 ビリーはほんの少しだけ名残推しそうにうなずいた。
 本当のところ、明日は彼女に代わりたいと密かに思っていた。だが少数精鋭で行く作戦の今回、レンマーツォはゼプツェンに比べて力不足である。共に戦えないのであれば、それ以外のことで彼女を励ましたいと思った。でも今、もっとはっきり、彼女を助けたいと思う。せっかく素直な表情を見せてくれるようになったこの少女のことを、もっと知りたくなったから。
 できるならこれからも、こうしてまっすぐに向き合いたい。
「―――マリア」
 ビリーは先に降りてマリアに手を差し伸べた。この手を彼女が取ってくれるかどうか、半信半疑のままの表情で。
 マリアはゼプツェンの指に座り、ほんの一瞬ためらった。昼間までとは違う、これまで気づいていなかった感情が自分の中に有ることを悟り、心臓がまたひとつ跳ねる。
 けれど、迷ったのはその時だけだった。また目をそらして、ビリーにあんな顔をさせるのはいやだと思った。
 今度はちゃんとこの手を取ろう。それからちゃんとお礼を言おう。それから、―――何を言えばいいだろう?
 ビリーの肩に右手をつき、左手はビリーの右手におそるおそる委ねて、マリアは甲板に軽く降りたった。昼間の騒ぎのときは気づかなかった、お互いの体温が指先から伝わる。マリアは頭一つ高いビリーを見上げ、かすかな声と共に、笑顔を見せた。
「…ありがとう」
 一生懸命に言ったのがわかるだろうか? この手の温かさが嬉しいと、伝わるだろうか?
 少し不安に思いながら待っていると、ビリーはまじまじと彼女の顔を見詰め、それから極上の笑顔を返してくれた。
「嬉しいな」
「え?」
「気がついてなかった? 君が僕に笑ってくれたこと、今までなかったんだけど」
「…嘘」
「本当だよ」
 手をゆるくつないだまま、ビリーは優しい目をしていた。少し赤く染まったマリアの頬を、もう少し見ていたいと思ったから。
「ありがとう、ね」
「…お礼をおっしゃるのは、変です」
 言葉はいつものようにそっけなく響く。だが、口の端に上る笑みや、何よりビリーとまっすぐに向き合う碧の瞳は、マリアが彼を認めたとはっきりと語ってくれていた。
 何がこんな風に彼女を変えたのか、ビリーにはよくわからない。けれどわからないなりに、彼女のいる場所を、自分たちの位置を、得難くいとおしく感じていた。
 体温がかすかに空気を伝わる距離。そして伸ばした手をつなぎ続けていられる距離。
 片方の手を取ったまま、ビリーはゆっくりと歩き出した。驚いて引いていきそうになる小さな手を、少しだけ強く握る。
「…揺れるから」
 月の光に、ビリーの顔は影になっている。ずるいな、と思いながら、それでもマリアはうなずいた。
「…そうですね。揺れますから」
 出来る限りゆっくりと、同じ速度で歩きながら、二人とも結局素直ではない。
 ハッチまでは、時間も距離も、とても短く。
 二人の間で何かが始まったことを、ただ手のひらの熱だけが、静かな強さで伝えていた。

――― End 98/08/30



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こ…こんなんで良いですか?
主題は初恋(大赤面)です。
目指せ少女マンガ、マリアを可愛く、と念じて書いたんですが…
果たせてない気が。




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