いちばんあまいもの






「うまくいったみたいですわ、太公望様」
「多分もう、夕方までいらっしゃらないんじゃないかしら」
 赤雲と碧雲が声を潜めて報告する。いつもならバレンタインといえば騒がしい行事だが、現在は仙人たちが大挙して人間界に向かい、おかげで蓬莱島も神界ももぬけのからに近い。ここ竜吉公主の住まいの周辺も、いつも燃燈が配備している護衛のもの以外誰もいない。ただ、その内部に、護衛を楽々と出し抜いた男が一人増えてはいるが。
「ご苦労であったな、二人とも」
「いいえー、もうみんなに配っちゃった後でしたから!」
「燃燈様にばれないように気をつけてくださいねっ」
 いたずら好きで主人思いの女仙たちは、「ごゆっくり」と軽やかに笑いながら、戻ってきた主と入れ違いに部屋を去っていった。
 実は竜吉公主にだけは、自分が生きている事を早くから伝えていた太公望である。「自分がここに住むことになれば、仙界は旧体制のままだ」と勿体つけた理由を述べて姿をくらましていたのだが、竜吉公主には彼の内心が見通しだった様な気がする。微笑ひとつで彼を許し、突然の来訪でも必ず彼の為の空間を与えてくれるのは、太公望の正体が伏羲とわかった今も昔と変わらない。―――戦いとも責務とも無関係な場所だ。
「…待たせて済まぬな、太公望」
 質素な中にも優美さを損なわない庵の一室。遠来の客人に声をかけた佳人は、その姿を顕すだけで水の清涼を漂わせる。変わらぬ彼女の姿に、太公望はこっそりと安堵と感嘆のため息をもらした。決戦の最中に青白く染まっていた頬は、彼女の異母弟から太乙への「空気清浄器を作れ!」の訓令のおかげで、かつて崑崙にいたころのほのかな朱に戻っている。
「いや、わしが勝手に押しかけておるのだから気にするな。…しかしおぬしが探しておるのに見つからぬとは珍しいな、あの燃燈が」
 太公望が白々しく首をかしげてみせると、竜吉公主は少し寂しげな表情になった。
「うむ、蓬莱に来てから何かと忙しいようじゃし…多分夜には顔を見せてくれると思う。これはその時に渡そうか」
 彼女の手の中には小さな箱。あまり甘いものの好きではない弟のために、わざわざ手作りしたブラックチョコレート。
 どうやら彼女もバレンタインに便乗するらしいと察して(太公望にそれを伝えたのは申公豹である)、いささかの期待を込めて蓬莱にやってきたのは今朝早くだ。だが、小さな箱は彼宛てではなかった。
 彼を出迎えた竜吉公主の姿を思い返す。
「おぬしにも、今日来るとわかっていれば用意しておいたのじゃが」
 落胆した太公望に、竜吉公主は少し困ったような表情を見せた。
「…これまでにも、バレンタインにわしにチョコレートをくれたことなどないではないか」
 燃燈には渡すのに、と珍しく素直に太公望は拗ねた。小さく笑って、竜吉公主はその顔をのぞきこむ。
「おぬしがバレンタインに、必ず顔を見せてくれるものならな?」
 憮然とした気分ではあるのだが、しかし彼女の言う通りであったので、太公望は何も言えなくなった。
 彼女とこうした時間を過ごすようになってすぐ封神計画が始まったのだ。バレンタインには、必ずどころか、この十数年で一度か二度しか訪問できなかったような気がする。
 今年燃燈だけにチョコレートを用意した事には、意趣返しの含みがあるのだろう。そうと察して、太公望はそれでも思考をめぐらせた。
「…今日あやつ一人に良い思いをさせてたまるか」
 異母弟の執務の切れ間を待って渡す予定だと聞き、即座に考えはまとまった。竜吉公主が席を外した隙に、これはもうお祭りムードの赤雲と碧雲を手招きする。
 御機嫌伺いと称して日々この庵を訪ねてくる、そんな男をどうすれば今日一日ここから剥がしておく事ができるか。姉の体調を上回る重大事があれば―――しかし封神計画の終了した今では、はっきり言って思い付かない。では当の公主に関わる事ならどうか。太公望にチョコレートを用意していると知れば、燃燈はどんな行動に出るだろうか? 我が身を案じつつ、太公望は一つ頷いた。もしかしたらこの庵に直接押しかけてくるかとも思ったが、それより先に、まず当事者である太公望を探そうとするだろう。おそらくは叩きのめすためにではあろうが―――燃燈の実力ならば「最初の人」相手でも充分可能である―――それでもここから視点を外してくれれば良い。
 杜撰な策と承知してはいたが、半ば以上は嫌がらせである。そして燃燈はそれに乗ってしまった。
 どうせ後で公主の手作りのチョコレートを貰えるのだ。既にここにいる自分を探し回っている燃燈を想像しながらも、太公望は悔しい気分を拭えずにいる。卓の上の茶は相変わらず美味で、それは彼専用のものなのだが、それでも今日という日には特別にチョコレートが恋しかった。
 黙りがちな彼に困ったような視線を向けながら、竜吉公主は席を立ち、ほどなく小さな皿を持って戻ってきた。
「―――太公望、こんなものしかないが…」
 よければ、とすすめたその上には、指でつまめるほどの小さな菓子。
「え」
 一言つぶやいて、太公望の動きが止まる。―――とりどりの色砂糖で固められたそれは、どこから見てもチョコレートであった。
「…なんだ、あったのか?」
 しげしげと見つめたあと、太公望は拍子抜けした気分でそんなことをつぶやいた。竜吉公主は首をかしげ、怪訝そうにそんな彼の様子を見やる。
「赤雲と碧雲から、バレンタインには手作りのものでなくてはならぬと聞いたのでな。だから今年、おぬしの分は間に合わぬが」
「…いや、頂戴する」
 畏まって椅子に座り直し、太公望は押し頂くように一粒を取り上げた。
 ぱくりと口にほうり込んだそれを、ごちそうか何かのように味わっている彼を見て、竜吉公主の視線がなごんだ。
「…うまい」
「そうか」
 会話はまた跡切れがちになり、それでも居心地の悪いものではなくなる。
 程なく空になった皿を見ながら、太公望はちらりと我が侭めいたことを口にした。
「おぬし今、今年は間に合わぬと言ったな?」
「ああ」
「では、来年は間に合わせてくれると思って良いのか?」
 どこか意表を突かれたような様子で、竜吉公主はわずかに目を見開く。それを見て太公望は、何がそんなに意外なのか疑問に思ったが―――次の瞬間、理解した。
 花の綻ぶような笑顔。おそらく自分以外、誰も見たことのない。
 彼女がこんな顔をするのは、決まって―――
「そうじゃな。来年は、ちゃんと作っておく…約束しよう」
 約束。
 太公望が、未来の事を口にしたときだけ。
 封神計画が始まってから今まで、先の約束をしたことなど、なかったのだ。
「…うむ。頼んだぞ」
 そんな風に返しながら、太公望はわずかに赤面した。
 チョコレートよりこの笑顔の方が甘いと、つくづく思い知らされる。
 そっと寄せられる唇も。
 卓の端にある燃燈宛ての包みを分捕ってしまいたい衝動に駆られつつ―――
 来年はどうやって燃燈を出し抜こうかと、今から考えを巡らせる太公望であった。


―――End 2001/03/21



…甘くないっ。それ以前にまとまってないっ!
リクエストは「バレンタイン激甘」だったのよ!
確かに覚えてますわ!
どーしてこーなったのか書いた本人にもわかりません〜。
…ということで、おまけ。燃燈様ファンはご覧になりませんように。




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