その頃の彼ら






 五百年以上の昔から、年に一度仙界が色めきたつ日を、燃燈道人はどちらかといえば冷ややかな目で眺めていたものだ。
 無欲清廉であるべき仙人が浮ついた顔であちらこちらと出向くのがまず気に入らない。さして甘いものが好きでもない彼に、気持ちだといって得体の知れない菓子を押し付けてくる。さらに言えば、崑崙に最初にこの行事を伝えたのが老子だったというのがうさんくささに拍車をかけている気がする。彼が夢で見た未来を元始天尊にもらしたため、弟子と饅頭を本気で取り合うくらい甘いもの好きだった教主は、張り切って誇大な宣伝工作を行った。退屈していた面々の多い崑崙でまずその行事が定着してしまい、それがどこをどうしたものか金鰲にまで波及してしまったのは有名な話だ。ここぞとばかり太乙がその菓子の製造機を発明量産し、女仙たちは争ってそれを手に入れた。
 よくぞこの長い年月続けてきたものだと燃燈は皮肉に考えた。蓬莱島で新たな世界の構築に励み始めたある日、赤雲と碧雲から渡された包みからは、確かにあの菓子の匂いがしていたのだ。
「バレンタインデーですから!」
 にっこり笑ってそういった赤雲と、これは見るからに緊張している(楊ゼンのせいなのは燃燈でもわかる)碧雲が、執務室に詰めている面々に色とりどりの箱を渡していく。楊ゼンが執務の手を止めてチョコレート―――確かそんな名前だった―――を受け取る。何をにやけているのだ、と燃燈道人は眉間に皺を寄せた。少し席をはずした隙に、彼の机の上もすでに箱の山になっている。置いてあったはずの書類もすでにとりどりのリボンの下に埋もれていた。
「まあ燃燈、年に一度のことだし」
 そういって張奎がいさめたが、彼自身も小さな包みを傍らに置いてごきげんである。蓬莱島きってのおしどり夫婦(というか他にまともな夫婦がいない)と名高い彼らであるから、ここは気にせず流すのが大人げというものだろうとわかっている。わかってはいるが。
「蘭英は料理がうまいから毎年楽しみだよ」
 などとにやけた顔で言われたら、それはもう最終奥義の出番しかなかろう。
 自らの失言に気づいて青ざめた張奎を見捨てて、執務室から女性二人と自分のもらったチョコレートを要領よく退避させつつ、楊ゼンはこっそりため息をついた。
「…やっぱり燃燈さまにお渡ししてはまずかったかしら、楊ゼンさま」
 後ろから聞こえてくる爆音を振り返りつつ、赤雲がこっそりと言った。
「やっぱりって?」
「公主さまがおっしゃってたのよね」
「燃燈さまは生真面目だから、こういうお祭りがあまりお好きではないんですって」
 うんうんと頷きあいながら、碧雲と赤雲は「でも」と声をそろえる。
「平和じゃなくちゃできないことなんだから、楽しんでも良いと思うんです」
「そうよね。せっかく戦いが終わって、封神台にも行けるようになったんだし」
 蓬莱島在住の女仙人たちの多くが今日封神台に向かっていることは、ここ数日の通行証作成で忙殺された楊ゼンもよく知っている。昨年は十二仙の大部分を欠いて沈んでいた彼女たちであるから、「今年は」との意気込みはすさまじいものであった。楊ゼン自身は、元よりにぎやかなイベントを嫌ったことはない。自分が崑崙―――現在は蓬莱島と神界で、一番もてる男だと認識できる日でもあることだし。
 楊ゼンの胸中をよそに、赤雲と碧雲は、これまでチョコレートを上げた相手のことを話題に盛り上がっている。彼女たちの手の中はすでに空っぽだ。朝見たときには両手に抱えていたから、さぞかし大勢に配ったのだろう。楊ゼンが苦笑していると、会話が途切れた一瞬に、赤雲が軽くため息をついた。
「太公望さまにも差し上げたかったな」
「ほんと、どこにいらっしゃるのかしらね」
 武吉と四不象の口から、彼が存命だったということが伝えられて久しい。怒ったりあきれたり忙しくすごした後、皆で一応彼を探してみたのだが、誰もその所在を捉えられなかった。いくつか捕獲作戦も考えられたがすべて失敗した。作戦会議中に雷震子のどなった「エサで釣れ」という台詞が一番正しいのではないかと、まことしやかにささやかれたりしたものだ。だからというわけでもなし、今回のバレンタインに賭ける輩もいたのだが、すでに日が高く上っている今も彼の到着の声は聞かれなかった。
「もったいないわよね。今年は公主さまも、チョコを用意していらしたのに―――」
「ばか、碧雲!」
 しっ、と赤雲が妹弟子に向かって指をたてた。碧雲も気づいて口を抑えた―――が、遅かった。それは楊ゼンと、―――不気味に静まりかえっている執務室にも、しっかり、聞こえていた。
 一瞬の静寂の後、言葉の意味を理解した楊ゼンが目を見開いた。
「何ですとー!?」
 その絶叫は、おそらく蓬莱島じゅうに響いたに違いない。


 そもそも竜吉公主といえば。
 純血の女仙、崑崙最強の術力、絶世というもおこがましい怜悧な美貌は天界にまで知れ渡っているという噂。かといって驕り高ぶる様なこともなく、冷静かつ柔和な人柄で、仙界じゅうの信頼と尊崇を集めている。清浄な大気の中でしか生きられないという薄倖さも、神秘性に拍車をかける材料としかならず、女神のように彼女をあがめる者も多いほどだ。ちなみにその筆頭が彼女の異母弟だということは、土行孫を始めとして、この数ヶ月で彼に叩きのめされた人々が骨身に沁みて知っている。
 その彼女が。
「チョコレートを」
「太公望にいいいいっ!?」
 瞬時にして蓬莱島から封神台まで噂が駆け巡った。これまで彼女が誰かにチョコレートを贈ったことはない(はずだった)。ライバルが減ったと喝采する女仙たち、血の涙を絞る男たちの阿鼻叫喚が響き渡る中、十二仙会議が臨時招集される騒ぎとなった。
「ねえさまが…ねえさまが…」
 そう繰り返す燃燈の視線は、みごとに空を泳いで危ない事この上ない。高嶺の花は高嶺のままに、というのが彼の偽らざる本音だろう。相手が太公望でさえなければ、今ごろ蓬莱島の海底に、瞬殺された死体がぶくぶくと沈んでいたにちがいない。
 うっかり秘密を漏らしてしまった碧雲は、彼らに捕まるより先に、どこより安全な場所―――竜吉公主の住まう庵へ避難してしまった。おかげで激白の現場に居合わせた楊ゼンは、彼を訪ねてくる女性陣の応対にたつ事も叶わず、燃燈の吊るし上げを食うはめに陥った。
「ですからっ、別に公主が師叔だけに贈られるとは聞いておりませんってば!」
「だが話の流れから行けば、少なくとも太公望のために用意したことは間違い無いだろう?」
「そ、それはそうですが、それ以上のことは聞いてませんよ」
「何故あの女仙を引き止めておかなかった!」
「だからなんで僕に言うんです! 燃燈様が直接公主にお尋ねになればいいじゃないですか」
「こんなことでねえさまを煩わせられるかばか者!」
 どっちがばかだ、とその場に集められた全員が思ったが、誰も口には出さない。
「―――燃燈、一つ忘れているようだが」
 咳払い一つの後、弟子思いの師匠が、不毛な尋問に助け船を出した。玉鼎とて騒がしいことを好んでいるわけではない。だがこの場に長くいるよりは、女仙たちのお祭り騒ぎに付き合わされていた方が、まだいくらかましな気がする。
「いずれにしても、太公望が来なければ、ここで我々が騒いでいても無意味なことではないのか?」
 ここで騒いでいるのは燃燈一人なのだが、それも口にはださない。要するに当事者抜きで―――一方は行方不明、もう一方は崇め奉られているが故に蚊帳の外に置かれている―――騒いだところで、何の益も無いと言いたかったのだ。が。
 ―――その言葉は、見事なまでに逆効果を生んだ。
 楊ゼンの襟首を締め上げていた手がふと止まる。
「…まさか太公望。ねえさまのお気持ちを無碍にするつもりではあるまいな」
「―――はい?」
 燃燈のつぶやきをもろに受けた形の楊ゼンが問い返した。が、燃燈はすでに自分の世界に突入してしまっている。
「あやつが死んだと思って、ねえさまがいかに悲しまれたか。それが便りのひとつもよこさずに、のうのうと人間界でのらくら生活しているという噂…弱ったお体に鞭打って戦いに挑んだねえさまに、あまりといえばあまりな仕打ちではないか」
「…燃燈…」
「まして今日、来るか来ぬかもわからぬというに贈り物を用意なさったけなげなお心を、まさか無視するなどと」
「おい、燃燈?」
「許さん! 許さんぞ太公望!」
 燃燈はがばりと顔を上げた。その全身にみなぎる気合に、玉鼎は自分が失言したことを悟ったが、もう遅い。
「良くぞ言ってくれた玉鼎。そう、太公望がここに来なくては無意味! なんとしてもねえさまに詫びを入れさせなくては!」
「…あのさ、燃燈…」
「行くぞ皆! 太公望を捕獲するのだ!」
「…僕らも頭数なの?」
「当然であろう! ねえさまの一大事!」
 お前の一大事をすりかえるな、という十二仙の魂の叫びは、当然ながら相手には届かず。
「……すまん、うかつだった……」
「……玉鼎が言わなくてもこうなってたよきっと」
 玉鼎と太乙が揃ってため息をつく。この後十二仙と彼らの弟子たちは、そろってむなしく人間界の空を飛びまわることになるのだった。


「後で覚えててね、望ちゃん」
 にこやかにそうつぶやいた普賢だけは、彼の所在を悟っていたのであるが―――
「…ま、バレンタインだし、ね」
 核融合一回くらいで許してあげようと考える、友人思いの彼であった。




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